第3話「夜川橋のクラクション」
「なんでお前は、廃墟とか橋とかそういう場所が好きすぎるんだよ」
白いワゴン車のハンドルを切りながら、宗太は煙草の吸い殻を車内の灰皿へ押し付けた。
街灯がまばらになり、車窓の景色はすっかり黒々とした夜の森へ飲み込まれている。
助手席では、深夏が大きなヘッドホンを首に掛けたまま、膝の上で死響子を抱えていた。
黒いパーカーのフードをすっぽりと被り、丸くなった姿はどこか小動物を思わせる。
「……違う」
「何が違うんだよ」
「好きだから行くんじゃない」
深夏は微かに眉をひそめ、耳裏の青い電極を指先でなぞった。
「……音がいる場所」
「言い方」
宗太は苦笑して助手席へチラリと視線を投げる。
専用プリンターから吐き出された、今回の依頼資料。助手席のダッシュボードの上に放られた紙面には、無機質な明朝体が並んでいた。
【録音対象】
夜川橋。
午前0時17分になると、橋の中央で古い車のクラクションが鳴る。
その音を聞いた者は、必ず後ろを振り返る。
翌日、聞きつけた者は同じ場所で意識不明の状態で発見される。
「また橋かよ。水辺は湿気が多くて機材にも良くねぇんだよな」
「橋はね、音が溜まりやすいから」
深夏は窓の外、漆黒の暗闇の中にうっすらと浮かび上がり始めた古いコンクリート橋を見つめながら、静かに言葉を継いだ。
「川の流れが空気を削るでしょ。風が橋脚を叩くでしょ。逃げ場を失った音が、あそこにどんどん積もっていくの。……ゴミ箱みたいに」
「お前、本当に学校行ったんだよな?」
◇
ワゴン車のライトを消すと、夜川橋の周囲は瞬時に深い闇へと沈み込んだ。
川のせせらぎ。遠くを走るバイパスの唸り。
風が木々を揺らす葉擦れの音。本来ならそこにあるはずの自然の音が、車の外へ足を踏み出した瞬間に違和感へと変わる。
深夏が不意に足を止めた。
「……変」
「……静かすぎる」
宗太も周囲を見回す。
足元を流れているはずの川の音が、途中からぷつりと途切れている。
遠くのバイパスの走行音も聞こえない。
まるで、この夜川橋という空間だけが、世界から切り取られて無音の箱の中に閉じ込められたかのような不気味さがあった。
「走行音が消えてる。川の音も……死んでる」
その時、宗太の靴底が何かを踏みつけた。
アスファルトの上で乾いたプラスチック音が鳴る。
ひび割れた液晶画面を点滅させていたのは、一台のスマートフォンだった。
画面には【録音中】の赤文字と、カウントされたタイムコード。
──00:17:03。
録音アプリは起動したまま放置されており、再生波形はほぼ真っ平らな直線を描いている。
深夏がかがみ込み、画面を覗き込んだ。
「……何も録れてない」
「現場で発見された奴の落とし物か?」
「音は鳴ってたはずなのに、マイクは何も拾えてない。……この音、空気を通ってない」
ダッシュボードに残してきた車の時計が、午前0時17分を刻んだ。
プァーーーーン……。
突如、闇の底から響き渡った。
重く、低く、どこか錆びついたような古い車のクラクション音。
一回。
二回。
三回。
物理的な音波として夜の空気を叩き割る。
宗太は思わず耳を塞ぎそうになったが、深夏は表情を変えずに死響子の画面を見つめた。
だが──画面が狂ったように光が踊り始める。
【解析不能】
【音源不明】
「……おかしい」
「何がだ?」
「音がない」
「は? 今、盛大に鳴っただろ」
深夏は首を横に振った。
その三白眼が、誰もいない橋の中央、空間そのものをじっと見つめている。
「違う。……これは空気の振動じゃない。昔、ここで聞こえた『音の記憶』」
ゆらり、と橋の中央の空気が歪んだ。
闇の中から浮き上がるように出現したのは、フロントガラスの叩き割られた、二十年以上前の古い国産車の影だった。ヘッドライトだけが泥のような濁った光を放ち、誰もいない運転席から、再び怪異の音が放たれる。
プァーーーーン──!
しかし、その音は深夏の耳には届かなかった。
代わりに、彼女の耳裏に埋め込まれた電極が、悲鳴のような警告音を発しながら激しく赤く点滅し始めた。
「……っ!?」
「深夏!?」
深夏は激痛に顔を歪め、死響子を抱えたままその場に膝をついた。
「……今の、私に聞かせようとしたんじゃない」
「じゃあ何だ!」
深夏は唇を震わせ、苦しそうに自らの耳を塞いだ。
「……私の中に、入ろうとしてる……!」
彼女が持つ異常な聴覚。
音を聞き取れてしまうその能力そのものを道連れにするように、怪異の残響が直接深夏の意識へと浸食しようと雪崩れ込んでくる。
「深夏、離れろ──!」
宗太が叫び、深夏の前へ割って入ろうとした、その一瞬。
深夏の意思とは無関係に、抱えられた死響子が自動で甲高い警告音を上げた。
液晶画面に見たことのない文字が不気味に浮き出る。
【危険音響反応】
【自動出力開始】
ブゥゥン──!
死響子の集音部から強烈な重低音が弾けた。
深夏の身体を侵食しようとしていた不快な残響が、空間ごと力尽くではじき出される。橋全体を震わせていた狂暴なクラクションの音が、ガガッ、と歪んで霧散した。
「……あれ?」
深夏が息を荒らげながら、呆然と死響子を見つめる。
「……今、なんかした?」
宗太はポケットに手を突っ込んだまま、何事もなかったかのようにそっぽを向いた。
「いや、なんも」
「……嘘」
「なんでだよ」
「……音が一瞬、変わった」
深夏は指先で耳裏の電極に触れた。
赤く激しい明滅は収まりつつあったが、彼女の研ぎ澄まされた聴覚は見逃していなかった。
死響子が自動起動する直前、コンマ数秒だけ、別の「何か」が残響を殺した感覚を。
宗太は答えなかった。
ただ、ポケットの中で握りしめた手にぎゅっと力が入る。
その手袋の奥で、ほんの一瞬だけ、何かを押し殺すような熱が残っていた。
「宗太先輩」
「ん?」
「……今、音を消した?」
「気のせいだろ」
宗太は突き放すように言った。
「……ふぅん」
深夏はそれ以上追及しなかったが、じっと宗太の横顔を見つめたあと、ゆっくりと車の影へと歩み寄る。
「二十年前、ここで事故があった。車が川に落ちかけて……運転手は助けを求めて、クラクションを鳴らし続けた。誰かに気づいてほしくて、何度も、何度も」
『だれか……』
『聞こえてたら……助けて……』
届かなかったSOS。
助けが来ないまま息絶えた人間の、繰り返された叫び。
「……誰も、聞かなかったから」
「助けてって声を」
深夏は寂しそうに視線を落とした。
耳を塞ぎ、自分の世界だけに閉じこもって通り過ぎていく人々。誰にも届かなかった声が、行き場を失ってそのまま怒りに変わってしまったのだ。
「……かわいそう」
「車にか?」
「ううん。……音」
深夏は集音マイクを車影のフロントグリルへと向けた。
右耳の電極が、再び穏やかな青い光を取り戻す。
「……もう、鳴らさなくていいよ。私には、届いたから」
RECボタンが沈み込む。
ブゥゥン……。
死響子から放たれた波動が、二十年間届かなかったクラクションのノイズを優しく解き解いていく。
耳を刺す金切音が消え、濁ったヘッドライトの光が揺らぎ、澄み渡った「最後の三秒」だけが残された。
プァ……。
プァ……。
カトン、と乾いた金属音が響き、古い車の影は夜風の中に溶けるように消え去った。
川のせせらぎが戻ってくる。
風が木々を揺らす音が戻ってくる。世界から切り離されていた夜川橋に、再び日常の「音」が流れ込み始めた。
◇
帰り道の白いワゴン車内。
カビ臭いヒーターの風が、凍えた二人を暖めていた。
宗太は煙草に火をつけず、咥えたまま静かにアクセルを踏んでいる。
助手席の深夏は、保存された【夜川橋・クラクション】のデータをヘッドホンで再生していた。
ノイズの消えた、澄んだクラクションの音。
しかし──深夏は途中でぴたりと手を止め、巻き戻しボタンを押した。
「……宗太先輩」
「ん?」
「これ、聞いて」
深夏はヘッドホンを外し、スピーカー再生に切り替えた。
車内に、録音された「最後の三秒」が流れる。
プァ……。
プァ……。
そのクラクションの余韻の裏側。
かすかに、けれど確実に入り込んでいた「別の音」。
──ザッ、ザッ、ザッ。
硬い靴底が、アスファルトを叩く音。
濡れた橋の上を、誰かが走って近づいてくる足音だった。
宗太が眉をひそめる。
「足音……? 当時、周りに誰もいなかったはずだろ」
「うん。記録では、深夜で人通りはゼロだった」
「じゃあ、この足音は何だ」
深夏は死響子の画面を見つめたまま、低く呟いた。
「……この人、一人じゃなかった。助けを求めてクラクションを鳴らしてたんじゃない……『誰かが近づいてくる恐怖』から、逃げようとしてたのかも」
車内に、冷たい静寂が降り立つ。
解明されたはずの悲しい事故の底に、ぬっと顔を出した未知の違和感。
「……また変なもん拾っちまったな」
宗太が苦笑し、煙草をポケットへ仕舞い直した。
深夏はそれ以上何も言わず、ヘッドホンを首へ掛け直すと、パーカーのフードを深く被った。
「……宗太先輩」
「何だよ」
「さっき」
「あ?」
「……もしかして、私を守った?」
ウインカーのチッカ、チッカという規則的な音だけが、車内に響く。
「……腹減りすぎて幻聴でも聞こえたんじゃねぇのか」
宗太は吐き捨てるように言い、バックミラー越しに視線を外した。
深夏は少しだけ納得のいかないような顔をしたが、やがて「……そう」と短く呟いた。
「……じゃあ、今度オムライス」
「話飛びすぎだろ。なんでそうなる」
「命のお礼。オムライス、デミグラスじゃなくてケチャップのやつ」
「払うの俺だろそれ」
「事務所帰ったら寝る。起こさないでね」
深夏はそう言うと、死響子を毛布でくるみ、そのまま静かに目を閉じた。
宗太は苦笑し、ルームミラー越しに眠りにつく少女の寝顔を見る。
そして、ハンドルを握る自分の右手へ静かに視線を落とした。
(……めんどくさいことになったな)
宗太は小さく息を吐き出し、夜のバイパスへと車を走らせた。




