第2話「木暮児童公園の笑うブランコ」
コンビニ袋が擦れる音を引き連れ、宗太は森の奥に建つ二階建ての事務所へ足を踏み入れた。雨粒が屋根を叩く音だけが静かな敷地に響き、濡れた木々の匂いが夜気に溶け込んでいる。
分厚い防音扉を押し開けた瞬間、背中を追ってきた雨音がぴたりと途切れた。
一歩、また一歩。靴底が床を叩く乾いた音だけが、広い室内に小さく転がる。
静かだ。
耳鳴りさえ聞こえてきそうなその静寂を見回し、宗太は思わず苦笑した。
「そのうち音まで吸われそうだな」
壁一面を覆う黒い吸音材は、何度見ても圧迫感がある。
時計の秒針も、蛍光灯の唸りも、この部屋では何もかもが飲み込まれてしまうようだった。
カバンをデスクへ放り出し、革張りのソファへ勢いよく腰を下ろす。
その瞬間だった。すぐ隣で、小さく寝息が漏れた。
「……すぅ」
「うおっ!?」
宗太は飛び上がるように振り向くと、ソファの端、死角になる場所で毛布がもぞりと動いた。
忘れ物ではなかった。
黒いパーカーに包まれた石川深夏が、膝を抱えたまま丸くなって眠っている。
寝癖だらけの黒髪は好き放題に跳ね、細い腕の中では『死響子』だけが赤ん坊のように大事そうに抱き締められていた。本人の肩には毛布が掛かっていないのに、機材だけはふかふかのウール毛布で丁寧に包まれている。
宗太は呆れたように額へ手を当てた。
「お前、自分より機材優先かよ……」
近くにあったクッションを掴み、丸まる背中へ放り投げる。
ポフ、と軽い音が鳴った。
「……むぅ」
「何だ今の声」
深夏はクッションに顔を埋めたまま、籠った声で短く答えた。
「……寝言」
「んだよ、起きてんじゃねぇか」
宗太がコンビニ袋をテーブルに置くと、深夏はのそりと上体を起こした。
寝癖の隙間から、眠そうな三白眼がこちらを咎めるように見つめてくる。
「また、事務所で寝てたのか。会社でマンション一部屋借りてやってるだろ。ちゃんと帰ってベッドで寝ろ」
「事務所の方が静か」
深夏は毛布ごと死響子を抱き直し、不満そうに口を尖らせた。
「家ってね、冷蔵庫が喋るから。コンプレッサーがずっと低く唸ってるし、給湯器の電子音も、隣の家の犬の寝息も、外の電柱のトランスも、蛍光灯のジーってやつも聞こえる」
そう言って眉をひそめ、耳裏の電極に指先でトントンと触れた。
「……うるさくて、寝られない」
「普通そんなもん聞こえねぇよ」
宗太は苦笑して背もたれに体を預けた。
深夏の聴覚が異常なのは百も承知だが、人間社会で暮らすにはあまりに不便すぎる体だった。
「じゃあ、ここは?」
「床が浮いてる。振動が伝わらないようになってるから外の音が死んでるし、周りの森が風の音を吸ってくれる。……雨の音だけは近くに聞こえるから、好き」
「そりゃ良かったな。何千万もかけて防音工事した甲斐があったわ」
深夏がじっと視線を送ってくる。
その瞳は宗太の手元にあるコンビニ袋へ吸い寄せられていた。
「腹減ってるだろ。ほら」
チラッ、と深夏が首を傾げて袋の隙間を覗き込もうとする。
「見るな」
「……オムライス?」
「違う」
「……オムライスだったら嬉しかった」
「だから違うっつってんだろ。ほら、肉まんとチキン」
袋から温かい総菜を取り出すと、深夏は礼を言おうとして一度小さく口を開き、それから気まずそうに閉じた。視線を泳がせたあと、両手で大事そうに肉まんを受け取る。
ふー、ふー、と小さな息を吹きかけ、ハフッと一口頬張る。
口の端に小さな餡がついているのだが、本人だけがそれに気付いていない。
(……言うか。いや、言ったら絶対食べるのをやめるだろうな)
そう察した宗太は何も言わず、黙って缶コーヒーのプルタブを引き抜いた。
その時、壁際に据え付けられた専用端末が、ガガガと硬い機械音を立てて紙を吐き出し始めた。
一般の回線からはアクセスできない、裏のルートからの依頼を受信するためのプリンターだ。
宗太が立ち上がり、吐き出された紙を引き抜いて目を通す。
「また変なの来たぞ」
深夏が肉まんを口に咥えたまま、小動物のように首を傾げた。
紙面には無機質な明朝体で事件の概要が印字されている。
【録音対象】
三日前から毎晩、午前二時十三分になると、木暮児童公園のブランコが笑う。
耳にした周辺住民が、数名原因不明の鼓膜裂傷で搬送。
「時計見ろ、深夏。あと四十分で二時十三分だ」
宗太が車の鍵を指先で弾くと、深夏は肉まんを飲み込み、ヘッドホンを首へ掛けた。
その唇がほんのわずかに緩む。
「……うん。すぐ行こう」
◇
車のライトを消した瞬間、木暮児童公園は底なしの闇へと沈み込んだ。
周囲の住宅街からは街灯の光すら届かず、昼間は子供たちが遊ぶはずの場所が、まるで巨大な墓標のように佇んでいる。
目が暗闇に慣れてくると、
闇の中に滑り台、鉄棒、そしてブランコのシルエットが浮かび上がってきた。
誰もいないはずの夜の公園。
ギィ……。
不意に金属の擦れる音が響き、
誰も乗っていないブランコが、まるで子供の重さで沈み込むように大きく揺れた。
宗太の足が止まる。
遊具の影に、何かが小さくうずくまっていた。
生垣の奥の草むらに縮こまっていたのは、制服を着た一人の女子高生だった。
両耳を両手で押し潰すように塞ぎ、歯の根が合わないほど激しく身体を震わせている。
「宗太先輩、エンジン切って」
深夏が低く命じると同時に、ワゴン車のアイドリング音が消え、公園は完全な夜の底へ落ちた。
深夏は静かに耳を澄ませる。
ダッシュボードの時計が暗闇で跳ねた。
午前二時十三分。
ギィィィィィ──!
遠心力を無視した狂ったような加速でブランコが真横近くまで跳ね上がり、金属の擦れ合う金切音が夜の公園を叩き割った。
周囲の空気そのものが歪み始め、宗太の耳の奥にもツンとした鋭い痛みが走る。
その時、生垣の女子高生が耐えかねたように絶叫した。
「やめて……!」
ブランコが空中でピタリと静止する。
泣き叫んだ女子高生がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
涙で濡れた顔面は、暗闇の中で口元だけが歪んで笑っているように見えた。
「おい……! こいつが本体か!?」
宗太が手袋を嵌めた手を構え、跳びかかろうとした。だが──。
「落ち着いて宗太先輩。この子は笑ってるんじゃない」
深夏は女子高生ではなく、誰も乗っていないブランコへとまっすぐ視線を向けた。
彼女の耳裏で、青い電極が静かに明滅する。
「……この子が原因じゃない」
宗太が眉をひそめる。
「じゃあ、何だ」
深夏は答えず、激しく揺れ続けるブランコへ一歩、また一歩と歩み寄る。
「……音が、重なってる」
「重なってる?」
「誰かの最後の音と、この子の今の音が」
深夏はブランコの座板のすぐ上に死響子の集音部を重ねた。
人間には聞こえないほど微小で、けれど重い音がそこに刻まれていた。
ギィ……。ギィ……。
耳を叩く金切音の底に眠る、一定のリズム。
「昔、ここで誰かがずっと待ってた」
深夏の声が低く静かに沈んでいく。
「ブランコの軋み、鎖の振動……その音の中に、かつてここにいた誰かの声が混ざってる」
深夏はゆっくりと目を閉じた。
『ママ……』
『ごめんね……』
『明日も来るから……』
それは誰かを傷つけるための音ではなかった。
届かなかった約束が、ただ同じ場所で繰り返されていただけだった。
「……この子は、怖がらせたいんじゃない」
ギィ……。
深夏が近づくと、ブランコが小さく揺れた。
「誰かに……最後の約束を、聞いてほしかっただけ」
深夏は死響子のRECボタンへ静かに指を掛けた。
右耳裏の電極が深く青く光る。
「……一番綺麗な三秒だけ、私にちょうだい──」
カチッ。
赤いボタンが沈み込むと、
死響子が、手のひらの中で小さく震えた。
まるで、暗闇で泣いている音を、もう一度優しく聞き届けるように。
ギィィィィィ──。
歪んで跳ね上がっていたブランコの金切音が、少しずつ形を変えていく。
耳を裂く金属音の角が取れ、重なり合っていたノイズが一枚ずつ剥がれ落ちていく。
「……聞こえた」
「本当は、ずっとこれだったんだね」
ブランコの揺れが、すうっと穏やかに減衰していく。
生垣で身体を強張らせていた女子高生の肩からふっと力が抜けた。
「……ずっと、ここに来てたんです」
涙で顔を濡らしたまま、彼女は震える声でぽつりと零した。
「母が死ぬ前、最後に一緒に来た場所だったから……」
彼女がここへ来るたび、誰にも届かなかった過去の音もまた、目を覚ましていた。
二つの寂しさが、同じ場所で重なっていたのだ。
そして、狂暴なノイズが完全に消え去った一瞬の静寂の中──。
歪んでいた音の奥底から、美しく澄んだ「本来の三秒」だけが静かに浮かび上がった。
──マ……マ……。
──ずっと……待ってたよ。
ブランコが、カトン、と小さく音を立てて地上へ下りてくる。
深夏は死響子を胸へ抱きしめ、消えた虚空に向かって呟いた。
「……うん。ちゃんと、残したからね」
夜の公園に、ただ冷たい夜風の音だけが戻っていた。
◇
帰り道の白いワゴン車内。
ヒーターの暖気がカビ臭い送風となって車内を巡っていた。
宗太が火のついていないタバコを咥えたまま、バックミラー越しに助手席を見る。
深夏は膝の上で死響子の画面を見つめていた。
【登録名:木暮児童公園・ブランコ】
【属性:共鳴型(RESONANCE)】
【再生時間:00:03】
深夏はヘッドホンをつけ、保存された『三秒間の音』をじっと聴いていた。
「それが、お前が欲しかった音か?」
宗太の問いに、深夏はヘッドホンを首へ外し、小さく頷いた。
「うん」
「怖くないのか?」
深夏は少し考えてから、ぽつりと答えた。
「……綺麗だったから」
誰にも届かなかった約束。
誰にも覚えられることなく終わった声。
それでも、世界でただひとつ、最後までそこに残っていた音。
彼女はこれからも、死音を集めていく。
誰にも聞かれなかった最後の音を、
世界に一つだけ残すために。
消えてしまった命の、最後の証人になるために。




