第1話「ドクロ村の歯鳴らし女」
チッカ。チッカ。チッカ。
暗い車内で、ウィンカーだけが一定のリズムを刻んでいた。
ナビの画面にも名前が表示されない、一本きりの林道を、白いワゴン車が跳ねる。
ギシッと車体が大きく傾き、シートベルトが胸をきつく締め付けた。
ダッシュボードのペットボトルが小さくカタカタと鳴る。
サスペンションが軋むたび、車内に積まれた予備ケーブルの生々しいゴム臭が、カビ臭い送風に混ざって鼻を刺した。
助手席の石川深夏は、大きめの黒パーカーのフードを浅く被り、膝の上の機材を抱えたままシートに深く沈んでいた。肩までで切り揃えられた黒髪の隙間から、首に掛けた大型ヘッドホンと、右耳裏で青白く明滅する小さな電極が覗いている。
深夏は人差し指だけをウィンカーの音に合わせて小さく上下させていた。
ウィンカーが途切れた隙間に、カビ臭い送風の音だけが耳元へ迫る。
「宗太先輩」
エアコンの風に吸い込まれそうな、小さな声だった。
「ん? あと三分で現場だぞ。……寝てたか?」
「……三秒だけ」
深夏は小さく頭を振って、腕の中の機材をきゅっと抱きしめた。
「知ってる? ウィンカーって、車ごとに音が違うんだよ。カチカチ、とか、カチャカチャ、とか。……この車の音、好き。ちょっと低くて、落ち着く」
「急に饒舌だな」
ハンドルを握る宗太が、バックミラー越しに短く刈った髪をかき上げた。
無精髭の生えかけた顎を掻きながら苦笑する。
「もう二十三か。十五で事務所に来た頃と何も変わってねぇな。もう少し普通の趣味でも作れ」
「あるよ」
「あったの!?」
「録音」
「それ仕事だろ。……人の話より、お前は音の話ばっかだな」
「タイヤは嘘つかないから。……左前輪、少しだけ潰れてる。二・三ヘルツ低い」
「……見えねぇだろ、ここから」
「見てない。音」
深夏はふと眉をひそめ、両手で耳を塞いだ。
「……あと、時計。宗太先輩の腕時計。一秒ずつ、カチ、カチって。脳みそを突かれてるみたいで、気になる」
宗太が苦笑して、ワークジャケットの袖を伸ばして左腕の時計を隠した。
「耳が良すぎるのも考えもんだな。……寝ろ。現場ついたら起こしてやる」
「うん」
「……」
「寝たのか?」
「……寝ない」
そう返事をした三秒後には、助手席からすぅ、すぅ、と小さく規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
宗太はハンドルを握る手に力を込め、タバコを咥えたまま火をつけずに薄く笑う。
十五で知り合ったガキが、まだその顔をしてる。深夏の右耳裏では、肌に直接埋め込まれた小さな電極が、主の呼吸に合わせて静かに青く明滅していた。
◇
山奥の廃村「ドクロ村」。
車外は午前〇時十四分。車のドアを開けた瞬間、深夏は寒さで小さく肩を震わせた。湿気で腐り落ちた木造家屋の影へ歩みを進める。大型の密閉型ヘッドホンを頭部に固定しながら、彼女の唇だけが動いた。
「寒くねぇの?」
作業ジャケットの襟を立て、背後を歩く宗太が尋ねる。
「寒い」
そう答えながらも歩みは止めず、深夏は抱えた録音機材をさらに強く胸へ引き寄せた。
「……微かだけど、この子冷たいから。温めてあげないと、ノイズが乗る」
冷たい黒銀の筐体。
古いフィールドレコーダーにも、精密測定器にも見える異形の録音機。
中央の赤いRECボタンの周囲だけが、何度も押し込まれた跡でわずかに塗装が剥げていた。
人間には不器用な深夏が、その『死響子』にだけは酷く過保護だった。
「静かな場所って、本当はないんだよ。耳を澄ますほど、音は増えるから。私、静かな場所って好き。雨の日ってね、山は音が近くなるんだよ。葉っぱが水を吸うから。だから今日は、遠くまで聞こえる」
スマホのライトが捉えた天井の隙間。闇の中で、白いものだけが動いた。
無数の歯。闇の中で、それだけが笑っていた。
痩せすぎて頬骨だけが異常に浮き上がった女の輪郭。唇は裂けているのに、歯だけは陶器のように白い。舌はない。代わりに何百本もの歯が喉の奥までぎっしり並び、何かを呪わしく噛み続けるように鳴り響いていた。
逆さまになったその顔面が、暗闇から滑り落ちてくる。
──カチカチカチカチカチカチカチ!!!!
脳の髄まで直接叩き割るような、凶悪な「歯鳴らし」の呪音。
深夏の唇が微かに動く。
「……残響型。過去の執着がその場に固定されてる」
「残響型だな! レックして相殺すりゃいいんだろ!」
背後で宗太が叫び、流れる血を指で拭いながら身構える。
だが、深夏は死響子の録音ボタンへ指を掛けたまま、ピタリと動きを止めた。
「おい、深夏!? どうした!」
「……聞こえる」
「何がだよ!」
深夏は答えずに、右耳裏の電極をトントンと強く叩く。
青い光が狂ったように回転し、彼女の三白眼に深く静かな熱が宿っていく。
歯鳴らしの奥にある、別の音──。
カチカチという凶暴な噛み合わせの音の底に埋もれた、小さな、あまりにも切ない振動。
震える腹。乾いた喉。
何度も飲み込もうとして、飲み込めなかった細い溜め息。
百年前、この村を襲った激しい飢饉。
食べるものがなくなり、村人たちは次々と倒れていった。その中で、この女は最後まで自分の幼い子供へ僅かな食べ物を譲り続けた。
自分は何も食べず。ただ、我が子が生き残ることだけを祈って。
最後の夜。
空腹で意識が朦朧とする闇の中、女が最期に聞かされた音。
己の腹が虚しく鳴る音。
そして──死の直前まで、いつか子供が食べ物を口に運んで帰ってくるのだと信じ、無意識に何かを噛み続けようとした、小さく震える歯の音。
カチ。カチ。
「……」
深夏の顔から、張りつめていた緊張が消えた。
ガラス玉のようだった瞳が、柔らかな悲しみを帯びて女を見つめる。
「ずっと……食べたかったんだね」
怪異の裂けた口が、ぴくりと震えた。
そこに周囲を害する意図など最初からなかった。
悪意も、呪いも、怒りも。
ただ、百年間誰にも届かず、終わることのなかった孤独な空腹だけが、この空間に置き去りにされていたのだ。
「誰にも聞いてもらえなかったんだね」
深夏は静かに死響子の集音部を向けた。
「だから……音だけが、残った」
宗太は言葉を失い、黙って手袋の手を下げた。
深夏が怪異を見つめる時。彼女が見ているのは恐ろしい化け物などではない。最後まで世界に届くことなく消えていった、その人間の切実な記憶なのだ。
深夏はそっと目を閉じ、祈るように囁いた。
「一番綺麗な三秒だけ、私にちょうだい──」
カチッ。
赤いRECボタンが沈んだ。
ブゥゥン……!
『死響子』から解き放たれた高出力の逆位相波が、空間を静かに包み込んでいく。
「──っ」
暴れていた歯鳴らしのノイズが、少しずつ輪郭を失っていく。
空気そのものを噛み砕いていた異音が、逆位相波に削られるように薄れていく。
……カチ。……カチ。
最後まで残ったのは、何かを噛み続けるような小さな音だけだった。
深夏はゆっくりと目を引き開け、冷たい廃村の空気を深く吸い込んだ。
愛おしそうに死響子を胸へ抱きしめ、消え去った虚空に向かってぽつりと呟いた。
「……ちゃんと、残したからね」
風が木の葉を揺らす音だけが、夜の山奥に静かに満ちていった。
◇
さっきまでの静謐が嘘のように、彼女はいつもの無機質な録音師に戻っていた。
助手席へと戻り、死響子をシートベルトで優しく固定する。
宗太が自販機で買った温かい缶コーヒーを、深夏の頬にピト、と当てた。
「……っ!」
深夏はびくっと肩を震わせ、飛び退きそうな勢いで宗太を睨んだ。
「熱っ……」
「あんなものと対峙してて平気なのに、そこは普通なんだな。ほら、お疲れ」
深夏は礼を言おうとして、一度小さく口を開き、そして気まずそうに閉じた。視線を泳がせたあと、ようやく缶コーヒーを受け取る。両手で缶を包む指は細く白い。
「……あったかい」
宗太は、その一言だけで十分だったというように口元をゆるめた。
「飯、何食う。コンビニ寄るぞ」
「オムライス」
「お、珍しいな」
「……やっぱオムライス」
「両方ともオムライスじゃねーか」
「……うん」
「結局どっちなんだよ」
「……オムライス」
深夏は死響子の背面にある「死音ライブラリ」を開いた。
液晶画面に、先ほど保存したばかりのレコードが表示される。
【登録名:歯鳴らしの女】
【属性:残響型(ECHO)】
【再生時間:00:03】
深夏は再生ボタンを押し、ヘッドホンから流れる『三秒間の音』を静かに聴いた。
怖くない。醜くもない。
そこにはただ、百年前の一人の人間が残した、切なくも温かい生き様が刻まれていた。
深夏は画面を閉じ、そっと呟く。
「……また一つ、残せた」
誰にも聞かれることなく消えていった音を。
誰にも覚えられることなく終わった人生を。
彼女は記録する。
死者の最後の証人になるために。
これは──怪異となった理由を知り、その者が最後に残した最も美しい音を記録するために、石川深夏が死音を集める物語。
第1話「ドクロ村の歯鳴らし女」を読んでいただき、
ありがとうございました。
この作品は、短編小説「音の死骸」を執筆していた際に、
死音を集める話を連載化したら面白いのではないか、
というアイデアから生まれました。
主人公・石川深夏は、「音の死骸」でも登場していましたが、
あまりにも別人になり過ぎた為、短編版の方は名前だけ修正しています。
本作品では少し変わった女性ですが、
読み進めるほど彼女のことを好きになってもらえたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になったら、
ぜひ次話も読んでいただけると嬉しいです。
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それでは、第2話でお会いしましょう。




