第4話 海上学園都市と陽極寮
第4話 海上学園都市と陽極寮
大原春奈として生きると決めた日から、何度も鏡を見た。
最初は、そこに映る少女が自分だとは思えなかった。声も、顔も、髪も、指先も、何もかもが大野春太だった頃と違っていて、目が合うたびに胸の奥がざわついた。けれど時間というものは残酷で、同時に便利でもある。怒って、戸惑って、訓練で泣きそうになって、孔雀に散々からかわれているうちに、春奈は少しずつその顔で笑えるようになった。
だから、入学式が終わった今も、笑えている。
「いやー、入学式長かったねー。校長先生の話、普通に三回くらい終わったと思ったんだけど」
式典会場を出た新入生たちの列の中で、春奈は軽い調子でそう言った。隣にいた陽極寮所属の男子生徒が、緊張した顔のまま笑う。
「た、たしかに。でも、世界中の代表者も来てたし、仕方ないのかなって」
「まあね。天機学園、注目度えぐいし。偉い人たちも見に来たいっしょ」
春奈は肩をすくめる。
実際、式典会場には各国の関係者や企業代表の姿もあった。表向きは祝辞と視察。裏を返せば、次世代のAMS適性者たちを値踏みする視線だ。世界はAMSに期待している。労働問題、介護問題、災害救助、医療支援。人間の限界を補う技術として、AMSはすでに社会を変え始めていた。
そして同時に、軍事利用を望む者たちもいる。
天機学園が日本国内にありながら、どの国にも属しすぎない独立機関として扱われているのは、そのためだ。海上に浮かぶ学園都市。全寮制。厳重な管理体制。表向きは教育機関で、実態はAMS時代の未来を握る巨大な実験場でもある。
春奈は視線だけを左へ動かした。
少し離れた場所で、陰極寮の新入生たちが別の誘導ラインに沿って移動している。その中に、大野秋音の姿があった。黒に近い落ち着いた髪。まっすぐな背筋。余計な会話をしない、静かな横顔。
入学式の間も、秋音はほとんど表情を動かさなかった。
昔なら、絶対に退屈そうに春太の袖を引いていた。兄さん、まだ終わらないんですか、と小声で文句を言って、それでも最後まで姿勢だけは崩さない。そんな子だった。
今の秋音は、文句すら言わない。
「……笑ってなかったな」
「え?」
隣の生徒が首をかしげる。
春奈は即座に笑顔を作った。
「あ、こっちの話。入学式ってさ、笑うタイミングなさすぎて顔筋死ぬよねって」
「ああ、そういう……」
「そうそう。あたしモデルだからさ、笑顔キープは得意なんだけど、あれは別ジャンルだわ」
軽く流して、春奈は前を見る。
焦るな。
今すぐ秋音に話しかけるな。今の自分は、秋音にとってただの大原春奈だ。カリスマモデルで、派手なギャルで、初対面の同級生。そこに兄の距離感で踏み込めば、違和感どころでは済まない。
わかっている。
わかっているのに、視線は勝手に妹を探してしまう。
案内用ドローンが、新入生の頭上を滑るように飛んだ。丸いボディに小さな羽のような姿勢制御ユニットを備えた機体で、淡い青の光を点滅させながら多言語で案内を流している。
『陽極寮所属の新入生は、青色の誘導ラインに沿って寮区へ移動してください。途中、中央学区、商業区、訓練区外縁を通過します』
「うわ、案内ドローンまで声かわいくしてんじゃん。天機学園、そういうとこ抜かりないね」
春奈が呟くと、近くの女子生徒が少し緊張気味に話しかけてきた。
「あの、大原さんって、こういう施設とか詳しいんですか?」
「んー? まあ、仕事でちょいちょいAMS系の広告とか出てるし、施設見学もしたことあるからね」
嘘ではない。
ただし、詳しい理由の半分以上は、孔雀に連れ回されたからだ。研究区の裏導線、医療区の検査室、立入制限区域の非常用通路。新入生が知っていてはいけない場所まで、春奈はすでに何度も歩いている。
そんなことは、もちろん言えない。
中央学区を抜けると、視界が一気に開けた。
天機学園は、校舎だけで成り立っている場所ではない。講義棟を中心に、研究施設が塔のように並び、その向こうに訓練区の巨大なドームが見える。さらに奥には、海上演習場へ続く防波壁と、模擬市街地の高層建造物群があった。学生の訓練用とは思えない規模だ。
「市街地丸ごと再現って、規模バグってない?」
春奈の本音に、周囲の新入生たちが頷く。
ドローンの案内が続く。
『右手に見えるのは第一訓練区です。AMS部分展開、全身展開、集団演習、救助訓練、対抗戦に使用されます。海上演習場では、装甲損傷時の緊急停止訓練も行われます』
海上演習場。
その単語を聞いて、春奈は少しだけ目を細めた。
AMSは機械だ。基本的には水に弱い。もちろん通常運用中は装甲が保護しているため、雨や湿気程度で問題は起こらない。だが、装甲が損傷した状態で海水に触れれば話は別だ。ショート、制御系のエラー、最悪の場合は保護機能による強制停止。
海の上にある学園で、その弱点を抱えるというのは、なかなか皮肉が効いている。
いや、逆か。
ここだからこそ、海水環境下での訓練ができる。ここだからこそ、AMSの弱点を嫌でも学ぶ。天機学園は、安全な箱庭ではなく、危険を管理するための場所なのだ。
中央通路を抜けると、今度は商業区が見えてきた。
そこだけは、学校というより本当にショッピングモールだった。吹き抜けの通路にカフェ、制服の調整店、AMS対応ウェアショップ、書店、映画館、ゲーム施設。中央の大型スクリーンには、各企業の広告が流れている。
その中に、春奈の顔が映った。
銀色のAMSウェアをまとった大原春奈が、笑顔でこちらを見る。キャッチコピーは、新世代は、もっと自由に機械化する。
春奈は足を止めかけた。
周囲の生徒たちが一斉にスクリーンと本人を見比べる。
「え、あれ大原さんじゃん」
「本人の前で広告流れるの、すご……」
「写真より実物の方が可愛い……」
春奈は片手をひらひら振った。
「いやー、盛れてるっしょ? 撮影の時、風強すぎて前髪死ぬかと思ったけど」
笑いが起きる。
春奈は笑って受け流しながら、内心で少しだけため息をついた。
自分の顔が街中に流れる生活には、もう慣れた。孔雀が「社会的身分を作るには目立った方が隠れやすい」とかいう、正しそうでおかしい理屈を並べてモデル仕事を押し込んできたせいだ。結果として、大原春奈という名前は広まった。大野春太と結びつける者は、まずいない。
隠れるために目立つ。
発想が変態科学者すぎる。
『左手奥は医療区です。AMS適合検査、同期負荷治療、身体調整、精神ケアを行います。異常を感じた場合は、速やかに受診してください』
医療区の白い建物を見て、春奈は肩をすくめた。
「ここ、検査で何回もお世話になったやつ。できれば二度と行きたくないんだけど」
「検査って、モデルの仕事でですか?」
さっきの女子生徒が聞く。
「そんな感じ。AMSウェアの適合チェックって地味に面倒なんだよね」
これも嘘ではない。
ただ、本当はそれだけではない。春奈の身体は普通のAMロイドではない。体内AMSコア。半永久的な展開適性。管理AIの許可系統から外れかねない出力反応。医療区には、春奈専用の検査データがいくつも保管されている。
新入生に説明するには、何もかも重すぎた。
やがて、寮区に到着した。
海を背にして、巨大な二つの寮棟が並んでいる。
右側は、陽極寮。白と明るい金属色を基調にした開放的な建物で、ガラス張りの共有ラウンジや広いテラスが目立つ。中央には大きな吹き抜けがあり、学生同士の交流を前提にした造りだ。
左側は、陰極寮。黒と青みを帯びた銀を基調にした、落ち着いた印象の建物だった。直線的で整然としていて、外から見ても静けさがある。研究用の個別ブースや解析室が併設されているらしく、窓の向こうに淡い光のラインが走っていた。
春奈は思わず呟いた。
「めっちゃ性格出てるじゃん」
陽極は明るく、外へ広がる。陰極は静かに、内側へ沈む。
春奈は陽極。
秋音は陰極。
ぴったりすぎて、少しだけ笑えなかった。
『陽極寮所属の新入生は、正面エントランスへ。陰極寮所属の新入生は左側連絡橋へ進んでください』
人の流れが分かれる。
春奈は右へ行く。秋音は左へ行く。
近いのに、遠い。
手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、今の春奈にはその距離がひどく遠く感じた。
左側の連絡橋へ向かう秋音の背中が見える。周囲の生徒たちは少し距離を取っていた。秋音が拒絶しているわけではない。ただ、彼女の周囲だけ空気が冷えているように見える。話しかけづらいのだろう。
昔は、あんな子ではなかった。
秋音はもっと明るかった。兄の後ろにくっついて、知らない人にもきちんと挨拶して、それでいて春太の前ではすぐ甘えた。今のように、誰も寄せつけない背中ではなかった。
「……秋音」
声に出たかどうか、自分でもわからない。
その時、陽極寮側から声が飛んだ。
「大原さーん! こっち、受付始まってるって!」
春奈ははっとして、すぐに笑顔へ戻る。
「おっけー、今行く!」
切り替えろ。
今は大原春奈だ。
陽極寮のエントランスへ入ると、空気が一気に明るくなった。高い天井。光の差し込むラウンジ。壁面には寮内掲示板と、AMSメンテナンス予約システム。奥にはカフェスペースまである。
入寮手続きの列に並んだ瞬間、春奈はまた注目された。
「あの、本当に大原春奈さんですよね?」
「同じ寮とか信じられないんだけど」
「写真、後でお願いしてもいいですか?」
「芸能活動と授業って、両立できるんですか?」
質問が一気に来る。
春奈は慣れた顔で笑った。
「やほー。大原春奈でーす。寮生活とか初だから、変なことしてたら教えて? 写真はあとでね、あとで。入寮初日に撮影会始まったら、寮長さんに怒られそうだし」
周囲が笑う。
春奈はその場の空気を軽くしながら、一人一人の顔を見ていた。緊張している子、興味津々な子、春奈を値踏みする子、純粋に憧れている子。陽極寮らしく、全体的に感情が表に出やすい。明るいが、競争心も強そうだった。
ここで暮らすのか。
悪くない、と思った。
ただし、油断はできない。天機学園にいる時点で、誰もが一定以上の適性者だ。明るく見える生徒でも、実技演習では化ける可能性がある。春奈が目立ちすぎれば、興味を持たれる。隠しすぎれば、逆に怪しまれる。
ちょうどよく派手で、ちょうどよく軽く、ちょうどよく優秀。
大原春奈としての立ち位置は、そのあたりが理想だ。
受付で学生証をかざすと、寮内システムが反応した。
『大原春奈。陽極寮、第一棟三〇七号室。入室権限を付与します。AMS簡易メンテナンスドック、使用可能。緊急停止システム、登録済み』
「はーい、ありがと」
春奈は軽く返事をして、部屋へ向かった。
三〇七号室は、学生寮としてはかなり広かった。ベッド、机、収納、個人用端末、壁面モニター。さらに奥には、AMSデバイスの調整や部分展開後の点検に使う簡易メンテナンスドックがある。通常の学生ならここで外部デバイスの調整を行うのだろう。
春奈には、本来ほとんど必要ない設備だった。
体内にコアがあるからだ。
「え、普通に広っ。天機学園、金の使い方えぐ」
荷物を置き、ベッドに倒れ込む。
柔らかい。
そして、ようやく一人になった。
春奈は天井を見上げたまま、長く息を吐く。さっきまで保っていた笑顔が、ゆっくり剥がれていく。指先が自然と胸元へ向かった。そこには、いつも通りAMSコアの熱がある。
「……生きてた」
声が小さく落ちる。
「ちゃんと、生きてた」
秋音が歩いていた。自分の足で、天機学園の中を。あの火災の夜、泣き叫んでいた妹が、十五歳になって、春奈と同じ学園にいる。
それだけで、泣きそうになる。
でも、秋音は笑っていなかった。
春奈は腕で目元を覆った。
「そこまで都合よくは、いかないよね」
秋音が生きていればいい。そう思っていた。生きていてくれるなら、それで耐えられる。そうやって春奈は、何年も自分に言い聞かせてきた。
けれど実際に見てしまえば、それだけでは足りなかった。
笑ってほしい。
昔みたいに、兄さんと呼んでほしい。くだらないことで怒って、頬を膨らませて、宿題を真面目にやって、春太の袖を引いてほしい。
欲張りだ。
生きているだけで十分だと思ったのに、今度は笑ってほしいと思っている。
春奈は勢いよく起き上がった。
「焦るな、春奈。今のあたしが突っ込んだら、たぶん終わる」
壁の鏡に映った自分を見る。
天機学園の制服を少し着崩した、美少女ギャル。周囲にはカリスマモデルとして知られ、誰もが一度は振り返る顔。そこに大野春太の面影はない。少なくとも、普通に見れば。
春奈は自分の頬を両手で軽く叩いた。
「美少女ギャルの皮、便利だけど重いんだよね」
その時、部屋の端末が淡く光った。
『心拍変動が通常域を超過していました。呼吸も一時的に浅くなっています』
アリアの声だった。
寮内システムの通知に偽装しているが、春奈にはわかる。これは学園の全体放送ではなく、完全に個別通信だ。
春奈は鏡の前で髪を整えながら返す。
「妹見たらそりゃなるっしょ」
『接触は推奨しません』
「わかってる。今はまだ、ね」
『“今は”という表現に不安を覚えます』
「うわ、信用なさすぎ」
『過去の行動記録に基づく評価です』
「それ言われると反論しにくいやつじゃん」
アリアの声は、表向き無機質だった。
けれど春奈相手の時だけ、ほんのわずかに温度が混ざる。普通の生徒が聞けば気づかない程度の差。だが春奈は、その差を知っている。アリアがただの管理AIではないことも、彼女が普段どれほど徹底して普通のAIを演じているかも。
春奈はベッドに腰かけ、足をぶらつかせた。
「秋音のデータ、見た?」
『閲覧権限のない個人情報です』
「いや、あたし相手にそれ言う?」
『正式には閲覧権限がありません』
「正式には、ね」
『非公式には、非常に高いAMS適性を確認しています。特に制御系、解析系、継続展開時間において、同学年の基準値を大きく上回っています』
春奈は目を伏せた。
「そっか。やっぱ、すごいんだ」
『入学時点で一日規模の展開可能時間を示しています。一般学生の数時間と比較すると、異常値に近い優秀さです』
「秋音、努力する子だからね」
昔からそうだった。
春太が感覚で何かを覚えると、秋音は悔しそうな顔をして、それを何倍も練習した。最初から才能はあったのに、それでも努力をやめない。だから伸びる。だから強くなる。
今の秋音が、どれだけ努力したのか。
考えるだけで、胸が苦しくなる。
『もう一件、通知があります』
「今度は何?」
『出雲孔雀から呼び出しです』
春奈の表情が一瞬で死んだ。
「入寮初日から?」
『はい』
「ブラック助手業すぎん?」
『出雲孔雀基準では通常運用です』
「その基準、今すぐ廃止して」
『検討します』
「絶対検討しないやつじゃん」
春奈の学生証が、机の上で淡く光る。通常の学生証表示の奥に、別の認証コードが走った。研究区アクセス権限。一般新入生には絶対に付与されない、孔雀のラボへ続く裏導線の通行許可だ。
春奈は制服の襟を整え、髪を軽くまとめ直した。
さっきまでの新入生の顔ではない。カリスマモデルの顔でもない。孔雀の助手として、AMSの深部に関わる大原春奈の顔。
それでも口調だけは軽いままだった。
「はいはい、行きますよっと。入学初日くらい休ませてくれてもよくない?」
『同意します』
「お、珍しく味方?」
『ただし、孔雀姉――出雲孔雀の行動予測上、休暇が与えられる可能性は極めて低いです』
春奈は一瞬だけ目を細めた。
今、アリアは何か言いかけた。
姉さん、と。
けれど、春奈はそこには触れなかった。
「だよねー。あの人、労基って概念を研究室に置いてきたタイプだし」
『労働基準法の適用については、複数の問題があります』
「真面目に返さないで。悲しくなるから」
春奈は学生証を手に取り、部屋を出る。
廊下では、まだ新入生たちが部屋を探したり、荷物を運んだりしていた。春奈を見ると、何人かが手を振る。春奈も笑顔で返す。
「ちょい用事あるから、また後でねー」
陽極寮の明るい空気を抜け、エントランスへ向かう。
自動扉の向こうに、天機学園の街並みが広がっていた。海上に浮かぶ巨大な学園都市。人間とAI、機械と心、その境界線を学ぶ場所。
そのどこかに、秋音がいる。
そして別のどこかで、孔雀がろくでもない笑顔を浮かべて待っている。
春奈は深く息を吸い、いつもの軽い笑みを作った。
「大原春奈の入学初日、濃すぎじゃね?」
返事はない。
代わりに、学生証の研究区アクセス表示が淡く光った。
普通の新入生としての一日は、まだ終わらない。
けれどそれ以上に、孔雀の助手としての一日が、今から始まろうとしていた。




