王都からの使者、土下座する
ルナール村の朝は、今や「神聖な鐘の音」ではなく、除草班(元・隣国の精鋭スパイ部隊)による「ハッ! セイ!」という規律正しい掛け声で始まるようになっていた。
彼らはリーネから与えられた、肥料を薄めた「ただの水」を飲んでいるせいで、筋肉密度が鋼鉄を超え、瞳には知的な魔力が宿っている。今や彼ら一人で、一国の軍隊を壊滅させられる実力があるのだが、彼らの現在の生きがいは「リーネ様のキュウリに傷をつけないこと」に集約されていた。
「主、本日も庭園の魔力濃度は太陽表面を超えております。……おや、村の入り口に、妙な魔力反応がありますね」
人型シロが、テラスで肥料入りのハーブティーをリーネに差し出しながら、視線を遠くへ向けた。
「あら、またお客さん? 最近、うちの庭、観光地みたいになってきたわね」
リーネがのんびりと首を傾げた先、村の細道を土煙を上げてやってきたのは、金色の装飾が施された、いかにも「権威」を感じさせる豪華な魔導馬車だった。
馬車が庭の前に止まると、中から現れたのは、真っ白なローブを纏い、背中まで届く長い髭を蓄えた老人だった。手には宝石が埋め込まれた巨大な杖を握り、周囲には数人の魔法兵を引き連れている。
(※実際の状況:王都最高魔導機関の長、大賢者ゼノン。彼は騎士団長アルベルトの「辺境に聖女がいる」という報告と、商人の「国家予算並みの野菜」という噂、そして隣国のスパイ失踪を重く見た国王により、全権を委任されて調査に来たのである)
「……ふむ。不気味な土地だ。村の入り口からこの家まで、魔力の密度が異常すぎて、呼吸をするだけで肺が焼けそうになるわい」
ゼノンは眉を顰め、家の前に立つリーネとシロを睨みつけた。
「私が王都より遣わされた大賢者ゼノンである。この家から放たれている異常な魔力反応、および不法な魔導薬(肥料)の製造疑いにより、これより家宅捜索を行う。立ち退きたまえ」
その言葉を聞いた瞬間、除草班のカイルたちが「あぁ?」と殺気立ったが、シロが手で制した。
「家宅捜索? 困ったわ。今はちょうどジャガイモの植え替えで忙しいんです。ねえ、おじいちゃん、そんな難しい顔してないで、これ飲んで落ち着いて?」
リーネは、大釜から汲み上げたばかりの「肥料水(希釈済み)」をコップに入れて、ゼノンに差し出した。
「無礼な! 王宮の魔導師に、そのような泥水を……。待て、その液体……まさか」
ゼノンは手に持っていた『万物鑑定の杖』をコップに近づけた。
すると、杖の先に埋め込まれていた「最高級の魔力結晶」が、キィィィィン! という悲鳴のような高音を奏でた直後、粉々に砕け散った。
「な、なんだと……!? 私の杖が……測定不能だと!? バカな、この杖は古龍の息吹さえ耐えられるはず……!」
ゼノンは震える手で、その七色に発光する「泥水(肥料)」を覗き込んだ。
その液体から立ち上るのは、魔力などという生易しいものではない。それは世界の理を書き換える「創世の息吹」そのもの。
「ご、ゴクリ……」
渇きに耐えかねたのか、あるいは魔導師としての知的好奇心に負けたのか。ゼノンは奪い取るようにコップを掴み、中身を一気に飲み干した。
「――!?!?!?」
次の瞬間、ゼノンの全身から、物理的な衝撃波が放たれた。
周囲にいた魔法兵たちが吹き飛び、空には真っ昼間だというのに巨大な五芒星の魔法陣が浮かび上がる。
「あ、熱い! 脳が焼ける! いや、私の中に眠っていた『賢者の石』が共鳴している! 視える……視えるぞ、真理が! 世界の法則が、まるで子供の落書きのように単純に思える……!」
ゼノンは杖を放り出し、地面にのたうち回った。
彼の内側で、長年「老衰」によって細くなっていた魔力回路が、特製肥料の暴力的なまでの生命力によって、無理やり超合金のパイプへと作り替えられていく。
同時に、彼の真っ白だった髭が抜け落ち、顔のシワが消え、髪は力強い黒色へと染まり直していく。
「お、おおおお……力が……全盛期どころか、歴代の大賢者をすべて合わせたよりも巨大な力が、この私に宿ってしまった……!」
わずか数分後。
そこにいたのは、威張り散らしていた老人ではなく、全身から圧倒的な賢者の威圧感を放つ「美青年(中身は大賢者)」であった。
「……ゼノン様? 大丈夫ですか、そのお姿……」
魔法兵たちが震えながら尋ねると、ゼノンは無言で、リーネの足元にある「肥料の入ったバケツ」を凝視した。
そして。
――ドサァッ!!
世界最高の権威を持つはずの大賢者が、家畜のフンや雑草が入った肥料バケツに向かって、深々と土下座(ヘッドスライディング気味)をしたのだ。
「申し訳ございませんでしたぁぁぁぁぁーーーっ!!」
「え、ええええええっ!? お、おじいちゃん……じゃなくて、お兄さん!?」
リーネが驚いて飛び退く。
「お許しください! この私、浅はかにも『不法な薬』などと……! 恥ずかしい、死にたい! 私が一生をかけて研究してきた魔導学は、このバケツの中身の前では、ただの泥遊びに過ぎませんでした! これを『肥料』と呼び、野菜に与えているなど……正気の沙汰ではない! 貴女様は、もしや神か……!? それとも……」
「ただの、家庭菜園をしてる村娘ですよ?」
「そんなわけがあるかァァァァァーーーッ!!」
ゼノンの叫びは、以前のハンスさんやマルコさんのそれよりも数段高い魔力波を伴って周囲に響いた。
「この液体の構成要素……この草、これは千年に一度開花するかどうかの『エデンの霊草』! そしてこの砂……これは龍神の骨! さらに、この配合比率! 一分の狂いもなく、宇宙の法則に従っている! これ一滴で、不毛の砂漠が一日で緑の森に変わるぞ! 貴女はそれを、トマトに!? ただの、トマトに撒いているのか!?」
「ええ。だって、美味しいトマトが食べたいじゃないですか。あ、おじいちゃん(青年)、そんなに感動したなら、このバケツ、一本持っていきます?」
「――――ッ!!」
ゼノンはあまりの衝撃に、白目を剥いて卒倒しかけた。
王国の国宝級の魔導書が千冊あっても、このバケツ一杯の価値には及ばない。
「い、いただけません……。私のような未熟者が、これほどの神力を扱えば、たちまち王都が魔力の暴走で消滅してしまいます……。あ、あああ……」
ゼノンはガタガタと震えながら、自分の部下たちに向かって叫んだ。
「お前たち! 今すぐ王都に報告しろ! 『ルナール村には、人類の手には負えない「神の庭」が存在する。ここは不干渉、絶対守護の聖域である』と! もし、ここを侵そうとする者がいれば、この私が、王都を滅ぼしてでも止めてやる!」
大賢者は完全にリーネの「肥料」の虜、もとい信徒と化してしまった。
「リーネ様……。どうか、この愚かな私に、せめてこのお庭の『門番』として、末席に加わることをお許しいただけないでしょうか。掃除でも、除草でも、なんでもいたします!」
「えー、おじいちゃんみたいな偉い人が掃除なんて……あ、そうだわ。シロ、除草班の皆さんが最近ちょっと忙しそうだし、この人に『害虫駆除(結界張り)』でもお願いしたら?」
「主、名案です。大賢者の結界なら、不届きな羽虫を寄せ付けない網としては、まあ合格点でしょう」
シロが冷たく言うと、ゼノンは「ありがとうございます! 光栄です!」と再び土下座した。
翌日から、リーネの庭には「銀色の鎧を着たマッチョな除草班」に加えて、「絶えず強力な防御結界を空中に描き続ける、顔色のいい青年(元・大賢者)」が加わることになった。
「うふふ、なんだか賑やかになってきたわね、シロ」
「ええ、主。……もっとも、王都の方は、最高権威の大賢者が『私は一生この庭を掃除して暮らす』という辞表を提出したせいで、ひっくり返るような大騒ぎになっているようですが」
「あら、そうなの? みんな、お仕事熱心で偉いわねぇ」
リーネは今日もニコニコしながら、新しい肥料の実験を開始した。
今回の配合は「シロの涙」と「大賢者の魔力結晶の破片」。
それが完成した時、庭のトマトが黄金色に輝き、村全体の重力が少しだけ浮き上がったのだが、リーネは「今日は体が軽くて作業が捗るわ!」と楽しそうに笑うのであった。
しかし、この「大賢者の辞職」という異常事態が、ついに対象を隣国へと広げ、世界規模の「利権争い」の引き金となってしまうことに、リーネはまだ気づいていなかった。




