スパイは家庭菜園に沈む
嵐のような市場パニックから数日が経ったけれど、ルナール村の熱気は一向に冷める気配がなかった。
それどころか、村を歩けば「おはよう、リーネちゃん!」と、二十歳は若返って肌がピカピカになったおばあちゃんたちが、丸太のような腕で元気に手を振ってくれる。ハンスさんに至っては、若返りすぎて村の娘さんたちから告白されるという「二次被害」に遭っているらしい。
「平和ねぇ、シロ」
「ええ、主。……もっとも、その平和を乱そうとする羽虫が、庭の生垣の外に数匹ほど張り付いておりますが」
人型になったシロは、上品に紅茶(肥料水を一滴垂らした、魔力濃度が致死量の飲み物)を啜りながら、冷ややかな視線を庭の隅へと向けた。
そう。ここ数日、村の周囲には「妙な人たち」がうろついている。彼らは村人になりすましているつもりらしいけれど、全身から漂う「殺気」と「鉄の匂い」が、肥料で浄化されたこの村の空気の中では、腐った魚のようによく目立っていた。
(※実際の状況:隣国の軍事帝国『ガリア』の諜報部隊『黒死鳥』。彼らはバドラス伯爵の通報を受け、「辺境に眠る未知の魔力源」を強奪するため、精鋭五名を派遣した。彼らは数々の小国を一夜で滅ぼしてきた、国家機密級の暗殺者たちである)
「あら、泥棒さん? 困ったわね。シロ、あんまり怖がらせちゃダメよ?」
「承知しております。……主の庭を汚さぬよう、静かに『処理』いたしますので」
その日の深夜。
月が雲に隠れ、村全体が深い闇に包まれた頃。
黒い装束に身を包んだ五人の影が、音もなくリーネの家の柵を飛び越えた。
「……ターゲットを確認。あの巨大な植物が噂の魔力源か。信じられん、一本のトマトから、帝国の魔導炉十基分を超える魔力が立ち昇っているぞ」
スパイのリーダー、カイルは震える声で囁いた。
彼の目的は、この植物の種、あるいは栽培方法を記した書物を盗み出すこと。そして可能であれば、育て主である「魔女」を拉致することだ。
「カイル様、あそこに白い服の男が……」
庭の中央、トマトの大樹の下に、椅子に座って読書をするシロの姿があった。
カイルは鼻で笑った。
「フン、ただの執事か。眠り薬を塗った針で一突きだ。……行け!」
二人の暗殺者が、影のようにシロの背後へと肉薄する。
しかし、彼らが武器を振り下ろすよりも早く、足元の「土」がボコォッ! と爆発した。
「――ぎゃあああああっ!?!?!?」
暗殺者たちの足を掴んだのは、なんと地面から突き出した『キュウリのツタ』だった。
ただのツタではない。肥料の力を極限まで吸い込み、ダイヤモンドよりも硬く、大蛇のように太く成長した「自律型防衛植物(リーネにとってはただの瑞々しいキュウリ)」である。
「な、なんだこれは!? 植物が、意思を持って動いているのか!?」
「お静かに。主が二階でお休みですので」
シロが本から目を離さずに指をパチンと鳴らすと、キュウリのツタはさらに激しく蠢き、暗殺者たちをミノムシのようにグルグル巻きにして吊り上げた。
「くっ……離せ! この化物め、死ねぇ!」
カイルが懐から魔導爆弾を取り出し、投げようとしたその瞬間。
彼の背後にある「生垣」――リーネが数日前に肥料を撒きすぎて、もはや迷宮のように巨大化した生け垣が、ガサガサと音を立てて波打った。
「……グ、グルルル……」
生垣の中から現れたのは、真っ赤な瞳を持つ巨大な狼……ではなかった。
それは、リーネが肥料を混ぜた餌を数回与えた結果、突然変異で「神獣」の領域に足を踏み入れてしまった、元・野良犬のコロ(現在は体長三メートルの『獄炎狼フェンリル』もどき)だった。
「ひ、ひいいいっ! なぜこんな辺境に神話級の魔獣が……!? 報告と違う、こんなの国家間戦争の規模じゃないか!」
暗殺者たちはパニックに陥り、逃げ出そうとした。
しかし、逃げようとした先には、リーネが昼間「防犯用に」と植えたばかりの『おじぎ草』が待ち構えていた。
肥料をたっぷり吸ったおじぎ草は、人が触れた瞬間に「おじぎ」をするのではない。
触れた対象を、強靭な葉のプレスで地面に叩きつけ、「土下座」を強制させる肉食植物へと進化していたのだ。
ドォォォォォォォォン!!
「ぐはっ……!? 腰が、腰の骨が……!」
暗殺者たちは、キュウリに吊るされ、巨大犬に睨まれ、おじぎ草にプレスされ、全滅した。
そこへ、二階から眠そうな目を擦りながら、リーネが下りてきた。
「ふぁぁ……シロ、なんだかお庭が騒がしいわね? 風かしら?」
「いえ、主。少しばかり迷い込んできた『不法投棄物』を片付けていただけです」
シロが微笑んで指し示した先には、キュウリのツタに縛り上げられてガタガタと震えている、黒装束の男たちがいた。
「あら! また泥棒さん? もう、最近多いわねぇ。シロ、そんなにきつく縛ったら可哀想じゃない」
「ですが主、彼らは武器を持っておりました。害獣と同じです」
「ダメよ、お腹が空いてるからそんな物騒なもの持つのよ。きっとこの辺りは食べるものに困ってるのね」
リーネは台所へ向かうと、大きなボウルいっぱいに「肥料育ちの蒸し野菜」を持って戻ってきた。
顔面蒼白の暗殺者たちの前に、ほかほかと湯気が立ち上る、発光するジャガイモとナスが置かれる。
「はい、これを食べなさい。これ食べたら、もう悪いことしちゃダメよ?」
「……な、何を……毒か? 毒殺するつもりか!」
リーダーのカイルは拒絶しようとしたが、あまりに神聖で芳醇な香りに、空腹だった胃袋が勝手に悲鳴を上げた。
彼は半狂乱でジャガイモを一口、かじり取った。
「――――ッッッ!!!!」
その瞬間、カイルの視界が白銀に染まった。
毒どころではない。
口にした瞬間、長年の潜入任務でボロボロだった内臓が瞬時に修復され、かつて帝国で「才能がない」と切り捨てられた魔力回路が、濁流のようなエネルギーによって無理やり拡張されていく。
「な、なんだ……この、生命の輝きは……。私は、今まで何を……。あのような小さな国の、小さな野望のために、こんなにも素晴らしい『命』を奪おうとしていたのか……!」
カイルはジャガイモを握りしめたまま、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
他の暗殺者たちも同様だった。
リーネの野菜には、食べた者の精神を浄化し、「あ、なんかもう争いとかどうでもいいわ」と思わせるほどの圧倒的な幸福感(と魔力)が含まれている。
「……美味い。こんなに美味いものが、この世にあるなんて。私は……私は間違っていた……!」
「あら、気に入ってくれたみたいね! よかったー。あ、シロ。この人たち、行くところがないならうちの畑の『除草係』として雇ってあげたらどうかしら? シロ一人じゃ大変でしょ?」
「……主がそう仰るなら。おい、お前たち。命拾いしたな」
シロが冷たく言い放つと、元・精鋭暗殺者たちは、一斉に地面に額を擦り付けた。
「お願いします! 働かせてください! この聖なるジャガイモを育てるためなら、私は命を捧げます!」
「私もです! このキュウリ様のツタを磨く係をさせてください!」
こうして、隣国の誇る最強スパイ部隊『黒死鳥』は、一晩にして「リーネの家庭菜園・除草班」へと再就職することになった。
翌朝。
庭では、筋骨隆々の黒装束の男たちが、真剣な表情でキュウリの葉についた虫をピンセットで取り除き、巨大犬コロの散歩(時速百キロでのランニング)に必死で食らいつく姿があった。
「うふふ、みんな仲良しで何よりだわ」
リーネは平和な光景に目を細め、今日もおじいちゃんのノートを広げた。
「さて、次は『肥料にドラゴンの脱皮した皮と、裏山の万年雪を混ぜる』って書いてあるわね。やってみましょう!」
「……主、それは確実に村一つを永久凍土にするか、あるいは不老不死の薬になります。ですが、私が全力で温度調整をいたしますので、ご安心を」
シロが(除草班に厳しい指導を飛ばしながら)優雅に応じる。
リーネの庭は、もはや一国の軍事力を上回る「超人養成施設」兼「聖域」へと変貌を遂げていた。
しかし、送り込んだスパイが全員「農業に目覚めました。国には帰りません」という不可解な遺書(?)を残して音信不通になったことで、隣国のガリア帝国はいよいよ「これはただ事ではない」と、本物の『軍隊』を動かそうとするのだが……。
「ねえカイルさん、そのナス、磨きすぎて光っちゃってるわよ?」
「いいえ主! この輝きこそが、我々の誠意の証です!」
リーネの「普通」は、今日も着実に世界の勢力図を塗り替えていくのであった。




