魔王軍、ピーマンに降る
ルナール村の我が家の前は、今や異次元の交差点のようになっていた。
空には天界への定期便を運ぶ女神様が飛び交い、庭では元大賢者が高度な結界で害虫を分子レベルで消滅させ、元スパイたちが鋼鉄のような筋肉で土を耕している。
そんな中、家の外から「ヴォォォォォン……」と、鼓膜を震わせるような禍々しい咆哮が響いた。
「主、本日二組目のお客様です。地獄の底から這い出してきた、魔界の軍勢三万。指揮を執るのは、現魔王『絶望のヴォルガ』だそうです」
シロが窓の外を見ながら、どこか楽しそうに告げた。
庭の外を見ると、空が紫色に染まり、数えきれないほどの悪魔やスケルトン、巨大なベヒモスたちが、今にも私の庭を蹂躙せんばかりに殺気立っていた。
「なんだか、とっても怖そうな名前の人ね。でも、あんなにたくさんで来ちゃって……。うちの庭、そんなに広くないのに」
「彼らの言い分によれば『天界だけがリーネの恵みを受けるのは不公平だ。地獄にもその禁断の果実を差し出せ。さもなくばこの地を灰にする』とのことです」
「あら、そんな物騒なこと言わなくてもいいのに。お腹が空いてると、どうしても怒りっぽくなっちゃうものね」
私はちょうど昨日完成した、新作肥料『暗黒星雲の塵(おじいちゃんのノートによれば「食べると目がシャキッとする」らしい)』をたっぷりと吸わせた、真っ黒に輝くピーマンのカゴを抱えた。
「シロ、このピーマンを持って行ってあげましょう。ちょうど『激辛キノコソース』の試作もできたし、魔王様も気に入ってくれるはずよ!」
庭の正門前。
魔王ヴォルガは、漆黒の鎧に身を包み、身の丈を超える魔剣を地面に突き立てて待っていた。
彼の周囲には、一振りで城を落とす四天王たちが並び、絶望的な威圧感を放っている。
「……遅い。人間ごときが我ら魔王軍を待たせるとは。その命と引き換えに、あの『神の野菜』をすべて奪い取って――」
魔王が言葉を言い切る前に、ギィ……と門が開いた。
そこから現れたのは、のんびりとカゴを抱えた私と、その横で欠伸をしているシロ。
「こんにちは、魔王様。遠くからわざわざお疲れ様です。これ、うちの特産品のピーマンなんですけど、一つ食べてみませんか?」
「……何だと? 貴様、この余に向かって、緑色の不気味な野菜を食えと言うのか? 愚弄するか!」
「いえいえ、これは普通のピーマンじゃないんです。ちょっと肥料にこだわったので、食べると『魂の汚れ』が全部落ちて、体が軽くなるんですよ?」
「ふん、魂の汚れこそが我ら魔族の力! そんなものを落とされてたまるか! ……だが、もしその野菜とやらが我を満足させられぬ時は、この地を更地にして――」
「はい、あーん」
私は魔王の脅しを無視して、特製激辛ソースをたっぷり塗ったピーマンを、彼の口に放り込んだ。
――ガリッ。
瞬間。
魔王ヴォルガの全身から、漆黒の魔力ではなく、真っ白な「浄化の煙」が噴き出した。
「――――ッ!?!?!?!?!?!?」
魔王の瞳が白目を剥き、漆黒の鎧がパキパキと音を立てて砕け散る。
彼の脳内に直接、宇宙の理と、太陽の輝き、そして「お母さんの温もり」のような慈愛のイメージが濁流となって流れ込んだ。
「……が、は……っ! 何だ、この衝撃は……! 辛い! 狂おしいほど辛いのに、後味が驚くほど爽やかだ……! 私の中にあった『邪悪な衝動』が、このピーマンの苦みによって完璧に中和されていく……!」
魔王は魔剣を放り出し、その場に四つん這いになって号泣し始めた。
「……私は、今まで何をしていたのだ……。世界を滅ぼす? 支配する? そんな虚しいことに時間を費やすくらいなら、なぜもっと早く、この『ピーマンの肉詰め(予定)』に出会わなかったのか……!」
魔王の後ろにいた三万の軍勢も、飛んできたピーマンの胞子や香りを浴びただけで、一斉に戦意を喪失した。
スケルトンたちは「なんか骨粗鬆症が治った気がする」と喜び、悪魔たちは「これからはボランティア活動に励みたい」と互いに握手を交わし始めた。
「魔王様、大丈夫ですか? お代わり、まだたくさんありますよ」
「……リーネ殿。いえ、リーネ聖下。私は今、生まれ変わりました。この溢れんばかりの感謝をどう伝えればよいか……。そうだ、我が軍勢は今日を限りに解散し、貴女の『堆肥作り係』として第二の人生を歩ませてください!」
「ええっ!? 三万人も堆肥係になっちゃうの?」
「はい! 魔界の土は栄養が豊富です。我らが魔界から土を運び、貴女の庭をさらに豊かにしてみせましょう!」
こうして、世界を滅ぼすはずだった魔王軍は、一瞬にして「世界最強の土木・運搬ギルド」へとジョブチェンジした。
その日の夕方。
ルナール村の私の庭は、もはや一つの国家、いや世界そのものになりつつあった。
天界から女神が空輸を行い、
魔界から魔王が最高級の黒土を運び、
王都の大賢者が野菜の品質を魔法で管理し、
隣国の精鋭スパイたちが黙々と雑草を抜く。
「……主、これでついに、天界・地獄・人間界のすべてが、主の野菜の供給ラインに組み込まれましたね。文字通りの『世界制覇』ですが、ご気分はいかがですか?」
シロが、新作のピーマン茶を淹れながら尋ねる。
「うーん、みんなが仲良くなって、美味しい野菜を食べてくれるのは嬉しいけど……。なんだか、庭が狭くなってきたわね。次は、おじいちゃんのノートにある『空中に浮く第二農園』を作ってみようかしら?」
「……主、それは浮遊大陸を創造するということですね。……承知いたしました。魔王軍に土を固めさせ、女神に高度を維持させ、ゼノンに酸素供給の結界を張らせましょう」
「あ、それいいわね! シロ、頼もしいわ!」
リーネは今日も、世界がひっくり返るような大事件を起こした自覚がないまま、夕食の仕度を始めるのであった。
門の外では、元魔王が「この堆肥の熟成度が足りん! リーネ様に失礼だろうが!」と部下を叱咤激励する声が、平和に響き渡っていた。




