第73話 エクラ・デュ・マタンにて
翌日、この日はエマが一番楽しみにしていたエクラ・デュ・マタンへと向かう。
昨日に引き続きエマが桜季を誘い、桜季も行きたいとのことだったので、三人で開店直後のエクラ・デュ・マタンを訪れる。
朝からエマはテンション高く、開店時刻にはもう店の前に到着していた。
「いらっしゃいませ。あら、蓮」
レジにいたのは旭。
まだほかに客もいない為に、姉としての顔で接して来る。
「おはよう、ねーさん。前に話してた通り、エマを連れて来た。それと、桜季も」
「おはようございまーす!」
「お、おはようございます」
元気良く挨拶するエマと、緊張気味の桜季。
旭はエマだけではなく桜季もいたことに少し首を傾げたようだが、すぐに笑みを浮かべる。
「はい、おはよう。エマさん、初めまして。蓮から話は聞いています。それと桜季ちゃんも」
「はい! このお店のケーキ、楽しみにしてました!」
「お、お久しぶりです」
本当に楽しみにしていたように声が弾むエマ。
目を輝かせて店内の焼き菓子や、ショーケースの中を興味深く見つめる。
一方で桜季も興味深そうに店内を眺めている。
夏帆や琴乃が買ってきたケーキを食べたことはあるが、こうして店を訪れたのは初めてだ。
色々と気になるのだろう。
「うーん……どれにしよう……」
ショーケースの前でエマは腕を組みながら真剣な表情で悩む。
知らない人が見たら、試験問題と向き合う学生だと思うかもしれない。
正直、どのケーキを選ぼうかといったレベルの表情ではない。
「よしっ! それじゃあまずはイチゴのミルフィーユシューのセットをお願いします!」
「かしこまりました。お飲み物はいかがいたしますか?」
「アイスブレンドで!」
悩んだ末にエマの注文が決まる。
まずはというところを考えれば、おそらくこの後にも何品か注文するのだろう。
昼食の方は必要ないかもしれない。
「おれはザッハトルテ。飲み物はダージリンをアイスで」
「えっと……わたしはベイクドチーズケーキをお願いします。同じくダージリンをアイスで」
「かしこまりました」
会計を終えて横へとずれる。
しばらくして飲み物とケーキの載った盆が用意された。
それを受け取り、エマは速足で席へと向かう。
蓮と桜季も、いつもより気持ち速めで席へと向かった。
「それじゃあいっただきまーす!」
「いただきます」
「いただきます」
三人揃って手を合わせて注文したケーキへとフォークを伸ばす。
エマは慎重に、だが手早くフォークとナイフを使って一口。
「――ッ! 美味しい!!」
驚愕、一拍置いて満面の笑みでそう口にした。
「レン、これ本当に美味しい! 昨日食べたお店も美味しかったけど、でもこれはそれ以上!」
「そう思ってくれて良かったよ」
蓮としても、自分の姉と義兄が営む店の商品が褒められるのはとても嬉しい。
少しばかり誇らしい気持ちになる。
「パイ生地は意外と軽め。もっとバター感を出しても成立しそうなのに、あえて抑えてる……。その代わりにカスタードを前に……。イチゴとのバランスを考えると確かにこの方が……」
味わいながら、パティシエとしての顔で分析を始めるエマ。
それを横目に蓮もザッハトルテへとナイフを伸ばす。
艶やかなチョコレートのコーティングへとそっとナイフを入れる。
ゆっくりと切り分けて口へと運ぶと、濃厚なチョコレートの甘さと上品な風味。
何度も食べているエクラ・デュ・マタンのケーキだが、今日もまた口いっぱいに幸福が広がる。
桜季もベイクドチーズケーキを口に運ぶと、その表情がすぐに綻んだ。
「美味しいです」
「だよね!」
三人揃って美味しそうに次の一口を口へと運ぶ。
そしてアイスティーを一口。
甘味を苦みが上書きして口の中がさっぱりとする。
「ねえレン。そっちのも少し貰えるかな?」
「ああ。桜季はどうする?」
「えっと、それではわたしも少しいただけますか?」
蓮は自分の皿のザッハトルテを切り分けて二人の皿へ。
お返しとばかりに二人も自分のケーキを取り分けて三人で交換。
「んーっ! 美味しい!」
「はい。こちらも美味しいです」
イチゴのミルフィーユシューはパイ生地の香ばしさと後を追う様な濃厚なカスタード。
そしてイチゴの爽やかな酸味が絶妙なバランスでまとまっている。
ベイクドチーズケーキもチーズの風味がゆっくりと広がり、一瞬遅れて甘さが追従。
チーズなのに重すぎず、それでいて濃厚で満足感。
程なくして三人の皿の上からケーキは姿を消してしまった
「はぁ……幸せ……」
エマが満足そうに背もたれに体を預けながら息を吐く。
「満足したか?」
「うん! 満足したけどもっと食べたい!」
その返答に蓮は苦笑してしまう。
店内には焼き菓子の香りが漂い、ショーケースの中にはまだ数多くのケーキが並んでいる。
エマからすれば、宝の山がまだ目の前にあるようなものなのだろう。
実際、視線は既にショーケースへと向いていた。
「それにしても参考になるなあ……」
ぽつりと呟くエマ。
「研究熱心だな。さっきも食べながら色々と唸ってたし」
「うん」
エマは素直に頷いた。
そして再びショーケースへと目を向ける。
そこに並ぶケーキ一つ一つを観察するように。
「こういう美味しいお店のケーキって、食べるだけでも凄く勉強になるからね」
「それは理解出来る」
エマのその声色は先程までの無邪気なものとは少し違う。
お菓子を食べることを楽しみ、かつ菓子職人を目指す職人としての顔だった。
「味だけじゃなくてさ。どういう構成にしてるのかとか、どこを主役にしてるのかとか」
エマは指先でフォークをくるりと回す。
「見た目もそう。甘さの出し方もそう。食べ終わった後にどういう印象が残るかもそう」
「なるほど……」
桜季も感心したように小さく頷いた。
「写真や動画でも勉強は出来るんだけどね」
そう言ってエマは空になった皿へ視線を落とした。
「でも実際に食べるのとは全然違うんだ。当たり前だけどね」
「参考になったようで何よりだ」
「うん。帰ったらさっそく試してみたいことがいくつか出来た!」
そう言ってエマは目を輝かせる。
パティシエとして今日食べて学んだことを、早速実践するのだろう。
「忙しくなるな」
「うん。大会もあるしね」
「大会?」
きょとんと桜季が首を傾ける。
「ほら、全国高校スイーツクリエイトグランプリ!」
「あっ!」
エマの説明に、合点がいったと桜季が頷く。
昨年の優勝者としてエマが今年も出場するのは既定事項のようなものだ。
「今年も優勝狙ってるからね」
「まあ、若手の登竜門的な意味もある大会だからなあ」
「うん。レンはどうするの?」
「おれは出ないと思う。前にも言ったけど、料理ってのは優劣を競うよりも、自分が食べて、誰かに食べて貰って『美味しい』って思ってもらえればそれが一番だし、そういう物だと思ってるからな」
そう言うとエマは納得したような、そして少し残念そうな表情で呟く。
「うん。理解出来るけどさ、やっぱりちょっともったいないって思っちゃうな。レンなら優勝も狙えるのに」
「そこはさ、ライバルが消えて喜ぶところじゃないのか?」
「強敵を倒してこそ勝利の価値が上がるから」
そう言って笑うエマに、蓮もつい笑みが浮かんだ。
✿
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
エクラ・デュ・マタンを出た後も三人で駅周辺を歩き、昼食を食べ、お土産を選び――気が付けばエマが帰る時間が近付いていた。
「いやー、楽しかった!」
バスが駅に到着すると、大きく伸びをしながら笑うエマ。
「なにより、エクラ・デュ・マタンにも行けたし!」
「満足したなら何よりだ」
「うん! 大満足!」
エマは満面の笑みで頷いた。
そして時刻を確認する。
「それじゃあ、そろそろだな」
「だね」
エマはそう答えると、蓮と桜季の顔を順番に見た。
「サキも、ありがとね!」
「いえ。わたしも楽しかったです」
「あはは、ありがと。それとね…………」
そして、エマは桜季の耳元へと口を寄せた。
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「あはは、ありがと。それとね…………」
そう言いながら、桜季の耳元にエマの口が寄せられ、いきなりのことに桜季はビクリと緊張してしまう。
そんな桜季に、エマは蓮に聞こえないくらいの小さな声で
「昨日の事、忘れないでね。レンが潰れそうになったらあなたが支えてあげて」
と口にした。
「エマさん……」
「あははっ、それじゃあね!」
それだけ言ってエマは改札を越えていく。
やがて姿が見えなくなったところで、桜季と蓮はお互いに顔を合わせてクスリと笑った。
「それじゃあ帰るか」
「はい。ついでにお夕飯の買い物もしてしまいますか?」
「ああ。そうだな」
そして、蓮と並んでスーパーへと歩き出す。
いつもの日常へと戻っていく。
そんな中、桜季の心にはエマの言葉がひっかかるように残っていた。




