第62話 桜の季節
桜季の格好に照れたのを隠すように、蓮は周囲へと視線を向ける。
しかしあと一人、この場を提供してくれるはずの凜の姿がまだなかった。
「そう言えば凜はまだかな?」
「あ、凜さんならさっき来て鍵開けてくれた。先に中入っててくれって言ってたよ」
「そうなのか?」
美鈴の言葉に通用門を見てみると鍵が開いている。
何か忘れものでもしたのだろうか。
まあ、先に入ってくれというのであれば入ることとする。
「それじゃあ中入るか」
「はい」
「うんっ」
勝手知ったる他人の敷地、というわけではないが通用門を超えて中へ。
しばらく来ていなかったが、庭園は記憶の中とあまり変わっていない。
「おー、いい感じに咲いてるじゃん」
美鈴が園庭の周りにある桜を見上げながら声を上げる。
五月に入りシーズンは少し過ぎてしまった為に七分咲き程度だろうか。
満開ではないが、充分に綺麗だ。
これなら花見は問題ないだろう。
「ああ。見ごたえがある」
「なんか思ってたのより凄いね!」
「昔から花見と言ったらここだからな」
「綺麗ですね……」
桜季も小さく感嘆の声を漏らす。
口元には小さな笑みが浮かび、その表情はどこか無防備だ。
桜を見上げる横顔、春風に揺れる髪。
そして今日の為に用意した服装の全てが、桜季の柔らかな雰囲気によく合っていた。
(……桜季って名前、ほんと今にぴったりだな)
そんなことを思う。
花びらが舞う中にいる桜季の姿が、どうしようもなく春らしく見えた。
気付けば蓮は、無意識にその姿へ見入っていた。
「蓮さん?」
「え?」
呼ばれて我に返る。
いつの間にか桜季がこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……」
誤魔化そうとして、けれど言葉が続かない。
その代わり、頭に浮かんでいた感想がそのまま口から零れた。
「なんか、桜季って桜の季節が似合うなって思って」
「えっ……?」
桜季の目が丸くなる。
「その、桜季って桜の季節って書くだろ? そのイメージもあるんだろうけど……今の景色に凄く合ってる」
「……っ!」
みるみるうちに桜季の頬が赤く染まり、慌てたように視線を逸らした。
その時、ひらりと一枚の花びらが桜季の髪へと舞い落ちる。
「あ……」
桜季の髪へふわりと乗った一枚の花びら。
ただそれだけなのに、妙に目を奪われる。
(……やっぱり今日、なんか違うな)
自分でも理由はよく分からない。
だが、気付けば視線が追いかけてしまう。
「あ、あの、蓮さん……?」
「え?」
呼ばれて我に返る。
恥ずかしそうな表情で桜季がこちらを見ていた。
「そ、その、どうかしましたか?」
「……いや」
誤魔化すように視線を逸らしかけたが、その前に蓮は桜季の髪へ手を伸ばした。
「花びら付いてる」
「えっ?」
指先でそっと花びらを摘まみ取る。
その瞬間、桜季の肩がぴくりと震えた。
「はい」
「あ……ありがとう、ございます」
小さく頭を下げる桜季。
その耳までほんのり赤くなっている。
そして蓮の方も、自分がかなり自然に触れてしまったことに今更気付く。
「……悪い。勝手に触った」
「い、いえっ!」
慌てて首を横に振る桜季。
「その……嫌じゃ、なかったので……」
「っ……」
不意打ちのような返答に、蓮の心臓が強く跳ねた。
嫌じゃなかった。
たったそれだけの言葉なのに、妙に印象へ残る。
「そ、そうか……」
どう返せばいいのか分からず、蓮は少しだけ視線を逸らした。
一方の桜季も、自分で口にした言葉が恥ずかしくなったのか、頬を赤くしたまま俯いている。
耳までほんのり染まっていて、落ち着かないように指先が袖口を弄っていた。
そんな桜季の様子を見ていると、蓮の方まで変に調子が狂う。
ただ花びらを取っただけ。
それなのに、妙に空気が落ち着かない。
「……風、結構吹きますね」
沈黙を埋めるように桜季が小さく呟く。
「ああ。まあ寒くはないし、どっちかというと心地良いけど」
五月上旬の日中ということもあり、気温はそこそこ高くなっている。
暑いというほどでもないが、ぽかぽかとした暖かい陽気。
時折吹く風が、火照った体を丁度良く冷ましてくれる。
そう返しながら、蓮は再び桜の木を見上げた。
するとまた風が吹き、花びらがふわりと舞い落ちる。
その光景を見て、桜季が嬉しそうに目を細めた。
「ふふ……綺麗です」
その笑顔を見て、蓮はなんとなく思う。
今日ここへ来て良かったな、と。
(……ていうか、おれ、今凄い事やったよな…………)
桜季の名前が今の景色に合っているとか、桜季の紙に触れて花びらを取ったりとか。
普段からは考えられないことが自然と出てしまっている。
(でも、それも悪くないな……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜季は今しがた起きたことを思い起こす。
(蓮さんに触れられちゃった……)
花びらを取る際に触れた蓮の手。
それが何とも言えず心地良かった。
髪へ触れられた感覚が残っている気がして、意識すると余計に顔が熱くなる。
(……なんだろう、この感じ)
上手く言葉には出来ない。
ただ、蓮と一緒にいる今この時間が、とても心地良かった。
(それに、わたしの名前……)
桜季、という名前の通り、今の景色に合っていると言ってくれた。
(蓮さん、そう思ってくれたんだ。えへへ……。嬉しいな……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そんな二人の様子を少し離れた場所から見ていた美鈴は小さく肩をすくめる。
(いや、蓮さんってこんな感じなんだ……)
以前の蓮とは違うイメージ。
もちろん、以前の蓮と今の蓮が別人のように思えるとかそういったことではない。
ただ、いつも以上に言葉や行動が自然だ。
おそらく、これがいつも以上に親しい相手に見せる、蓮の本質的な姿なのだろう。
(そりゃあサッキーも好きになっちゃうよね……)
内心でそう呟きながら、小さく肩をすくめる。
蓮はどれだけ桜季を意識させているのか全く気付いていない。
桜季も桜季で、自分の感情をまだ理解していない。
それでも並んでいる二人の空気は妙に自然で、見ていて不思議としっくり来る。
春の桜の下で並ぶ姿も、思っていた以上に絵になっていた。
(うん、まあ……いい感じじゃん)
少し呆れながらも、美鈴は満足そうにうんうんと頷き、二人の姿をそっと写真へと納めた。




