第53話 エプロンを見て
「蓮さん。これ、今、着てみてもいいですか?」
「ああ。おれも桜季が着たとこを見てみたいしな」
蓮の返事を聞いて、桜季はゆっくりとエプロンを手に立ち上がる。
胸元の刺繍に一度視線を落としてから、ゆっくりと首紐を持ち上げる。
その際にさらり、と髪が肩から流れる。
頭を少しだけ傾けて紐を通す仕草は、どこかぎこちなくて、それでいて妙に丁寧だった。
「……!」
その際に見えたうなじに、蓮は少しドキリとしてしまう。
そんなことを思いながら見ていると、今度は腰紐に手を回す。
「……えっと」
後ろで結ぼうとして、少しだけ手が止まる。
慣れていないのか、紐の位置を探るように指が動く。
「手伝うか?」
「い、いえ……だ、大丈夫です」
慌てて首を振る桜季。
そのまま何とか結ぼうとするが、すぐにほどけてしまった。
「……あっ」
小さく漏れる声。
その様子に、蓮は思わず苦笑してしまう。
「ほら、貸してみろって」
「……はい」
観念したように小さく頷いた。
少し前とは違い、無理してでも自分でやるのではなく、他人を頼るようになったことを少し嬉しく思う。
桜季が少しだけ前を向き直ったので、蓮は自然とその背後に立つ形になる。
手を伸ばして、腰紐を取る。
指先に触れる布越しの温もりに、ほんの一瞬だけ意識が向く。
(……いや、別に変なことをしているわけじゃないんだけど)
先程のうなじを思い出し、慌てて頭を振って追い払う。
息を整えて、手元に集中する。
「こうやって、一回しっかり引いてから結ぶとほどけにくい」
「は、はい……」
少し緊張したような声。
結び目を作り、形を整えてから手を離す。
「これで大丈夫だ」
「……ありがとうございます」
振り向いた桜季と、視線が合う。
一瞬だけ、言葉が途切れる。
「……どう、でしょうか」
ほんの少しだけ不安そうに問いかけてくる。
胸元の刺繍。
自分で縫った文字。
そして、その上に重なるエプロン。
それを身につけた桜季は――
「……似合ってると思う」
素直に言葉を口にする。
「本当ですか?」
「ああ。ちゃんと形も合ってるし、色もいい」
「……良かった」
ほっとしたように息を吐いて、ふわりと笑う。
桜季はくるりとその場で小さく回ってみせる。
その際に少しだけスカートが舞い(中は見えないが)、余計にドキリとさせられた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜季はエプロンを着用したまま細かく動き確認する。
「ちゃんと動けますね」
「そりゃあエプロンだからな」
「ふふっ、そうですね」
楽しそうに笑いながら、胸元の刺繍にそっと触れる。
「ほら、ここ、もっとよく見て下さい」
そう言って桜季は自分の胸元を指差す。
刺繍された部分、その出来栄えを、ちゃんと見てほしい。
そんな気持ちからの行動だった。
だが
「え……? あ、ああ……」
返ってきた蓮の声は、どこかぎこちない。
(……?)
不思議に思って顔を上げると、蓮の視線は確かにこちらへ向いているのに、どこか微妙に逸れている。
正面から見ているはずなのに、焦点が合っていないような、そんな違和感。
「どうかしましたか?」
「いや、その……ちゃんと出来てるな。うん」
どこか歯切れの悪い蓮の言葉。
その様子に首を傾げながら、桜季はふと自分の手元へと視線を落とした。
指差している位置。
そこにあるのは――
(……あっ)
胸元。
エプロンの刺繍は、ちょうどその位置に施されている。
自分は今、そこを指差して『もっとよく見て』と言ったのだ。
(え、えっと……)
一瞬で状況を理解し、思考が止まる。
次の瞬間、じわりと顔が熱くなっていくのを感じた。
(わ、わたし……何を……)
慌てて手を引こうとして、しかし一瞬遅れる。
その間にも、自分の言葉が頭の中で反響する。
再び蓮の方を見れば、やはりどこか視線を逸らしていて、明らかに困っている様子だった。
「……す、すみませんっ」
思わず小さく声が漏れる。
「いや、別に……」
「そ、その……刺繍、です。刺繍の方を見て頂きたくて……」
「ああ、分かってる。ちゃんと見てるから」
今度は少しだけまともな声で返ってくる。
それでもやはり、どこかぎこちない空気は残ったままだ。
桜季はそっと手を下ろし、エプロンの布を軽く握る。
(……でも)
ちらりと刺繍へと視線を向ける。
自分で縫った文字。
蓮が仕上げてくれたウサギ。
それは確かにそこにあって、少しだけ歪で、でも――
(ちゃんと出来てる)
先程の恥ずかしさとは別に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……どうでしょうか」
今度は少しだけ控えめに問いかける。
すると蓮は、今度こそしっかりと視線を合わせてきた。
「ああ。凄くいいと思う」
短く、でもはっきりとした言葉。
その一言だけで、さっきまでの気まずさが少しだけ和らぐ。
「……はい。えへへ、ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれた。
先程の恥ずかしさも全部含めて。
このエプロンは、やっぱり特別なものになったのだと――桜季はそう感じた。
✿
ひとしきり刺繍の出来栄えを眺めた後、ふと壁の時計に目を向ける。
「……あ、もうこんな時間なんですね」
思っていたよりも時間が経っていたらしい。
夢中になっていたせいか、楽しい時間はあっという間だった。
「そろそろ夕食の準備するか」
「はい」
桜季は頷きながら、もう一度だけ胸元の刺繍へと視線を落とす。
自分で縫った文字と、蓮の縫ったれっちゃん。
そっとエプロンの裾を整える。
まだ少しだけ新品特有の硬さはあるが、不思議と違和感はなかった。
「エプロンデビューだな」
「はい。楽しみです」
少しだけ照れながら答えると、蓮も笑って頷いた。
「いいんじゃないか。ちゃんと使っていく方が慣れるしな」
「はい」
そう言われると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
キッチンに並び、食材を取り出す。
今日買ってきたばかりの野菜や肉を前に、自然と気持ちが引き締まった。
「それじゃあ、まずは野菜から切っていこうか」
「はいっ」
包丁を手に取り、まな板の上に野菜を置く。
トントン、と小気味いい音がキッチンに響く。
(……ちゃんと出来てる)
切り終えたタイミングでちらりと胸元を見る。
そこには二人で作た刺繍。
それを身につけて、こうして料理をしている。
ただそれだけのことなのに、なんだかいつもとは違って思える。
「……どうだ?」
「はい。大丈夫だと思います」
顔を上げると、すぐ近くに蓮の姿。
距離の近さに一瞬だけ意識が向くが、すぐに視線を戻す。
「いい感じだな。次はニンジンだ」
「は、はい」
再び包丁を動かしながら、ふと口元が緩む。
先程の刺繍も、今のこの時間も。
(楽しい……)
その気持ちを噛みしめるように、桜季は丁寧に手を動かし続けた。




