第52話 刺繍
「よし、それじゃあ次は刺繍だな」
気持ちを切り替えるように、蓮が道具を手元に引き寄せる。
手のひらほどの大きさの木製の輪。
二重になった円形の枠の上部には、布を固定するための小さな金属製のねじが取り付けられている、いわゆる刺繍枠だ。
針に糸を通したところで、エプロンを刺繍枠に固定する。
「それ、なんですか?」
「これは刺繍枠だな。布地を張って作業をしやすくするんだ」
興味深そうに確認する桜季にそう答えながら、蓮はウサギの輪郭を刺繍していく。
輪郭が終わったら各パーツ。
ニンジンはオレンジ色の糸を使い、サテンステッチで面を埋めていく。
目や耳もそれぞれ別の色を使って、それぞれの個所をバックステッチやフレンチノットステッチを使ってウサギのイラストを手早く仕上げていく。
一つの個所が仕上がる毎に、桜季が目を輝かせる。
「……ここ、もう出来たんですね」
「ああ。こういうのは基本的に同じような作業の繰り返しだからな」
「凄いです……」
素直な感嘆の声に、少しだけ誇らしくなる。
早く完成が見たい、そんな桜季の声に蓮は少しだけ手の動きを速める。
そしてイラストを全て縫い終えた。
「これでイラストの方は完成だな」
「わあっ、凄いです!」
完成したイラストを見て、桜季が感嘆の声を上げた。
蓮から見ても充分な出来栄えだろう。
ニンジンを持った可愛いウサギのイラストが、エプロンに花を添えている。
「蓮さん、こういったことも出来るんですね」
「まあな。一人暮らしするにあたってはこういったことも出来た方がいいし」
正確には一人暮らしをするにあたって覚えたのではなく、小学生の時の家庭科の授業の練習で覚え、それから幾度か経験する機会があったからなのだが。
「ですが、私のエプロンなのに、蓮さんに全て作ってもらって……」
申し訳なさそうに呟く桜季。
とはいえ、蓮としても自分で全てを終わらせるつもりはない。
「いや、桜季にはまだやってもらうことがあるから」
「え? ですがこれで完成では?」
きょとんと首を傾けて桜季が問いかけてくる。
確かに桜季のイラストは全て蓮が仕上げた。
とはいえ、桜季の練習としてまだやることはある。
「イラストの下に名前を入れてみないか?」
「名前、ですか?」
蓮の提案に桜季が驚く。
「ああ。アルファベットで『Saki』ってさ。自分の物だって。それに」
蓮は少しだけ言葉を区切ってから続ける。
「こういうのは、自分で仕上げた方が愛着も湧くだろ?」
「……はい」
こくり、と桜季は小さく頷いた。
言いながら蓮はチャコペンで文字を入れる。
これなら初心者の桜季にも簡単に縫うことが出来るだろう。
「分からないとこはおれが教えるからさ。まずは簡単なiの部分から縫っていこう」
「は、はい……」
蓮の言葉に桜季は緊張しながら針を手に取る。
糸を通し、最初の一針。
「うん、いい感じだ」
慎重に、しかし確実に進んでいく。
「……どうでしょうか?」
「うん、大丈夫。次は――」
そのまま桜季は蓮の指示に従って、文字の部分を縫っていく。
aのカーブに差し掛かったところで少し手が止まった。
「……ここ、難しいです」
「無理に一気に曲げようとしなくていい。細かく分けて縫えば自然に曲がる」
そう言って蓮は適当な布を持って来て手本を見せる。
細かく、丁寧にカーブを描いていく。
説明しながらふと顔を上げる、とすぐ目の前に桜季の顔があった。
思わず目が合って、二人揃って固まってしまった。
「……あ」
「えっ?」
思った以上に距離が近く、互いに一瞬だけ動きが止まる。
だがすぐに桜季は慌てて視線を手元へ戻した。
「す、すみません……!」
「い、いや、気にしなくていい」
変に意識しそうになるのを、作業で誤魔化す。
「あ……なるほど」
蓮が手本を終えると、桜季も自分の作業へと戻る。
言われた通りに針を進める桜季。
✿
カーブに差し掛かったところで、わずかに手元がぶれる。
「……ここ、やっぱり少し難しいです」
「ああ、じゃあ――」
そう言って蓮は自然に手を伸ばした。
針の持ち方を直そうと――指が、重なった。
「……っ」
一瞬、互いの動きが止まる。
ほんの僅かな接触のはずなのに、やけに強く意識に残る。
桜季の指は少しだけ冷たくて、けれどすぐに体温が伝わってくる。
「あ、わ、悪い……」
「あ、い、いえ……」
慌てて離そうとするが、今度は逆にタイミングが重なって、もう一度軽く触れてしまう。
かすかに触れ直す感触。
「……」
「……」
言葉が続かない。
桜季は小さく息を呑んで、そのまま視線を手元に落とす。
耳のあたりが、ほんのりと赤くなっているのが分かった。
「……えっと、ここは、こうやって持つとやりやすい」
今度は触れないように少しだけ距離を取って説明する。
「は、はい……」
桜季も顔を赤くしながら、蓮の言った通りに持ち直す。
そのまま作業を進めていき、少しずつ形が整っていく。
「……出来てます」
「だろ?」
少しだけ嬉しそうな声で笑う桜季に、蓮も笑って答える。
安心したのか、そのままSの文字も同じ要領で縫っていく。
最初は緊張してぎこちなかった針使いだが、Sを縫い終える頃には手慣れて、というほどではないが、本人も楽しそうな笑みを浮かべていた。
(飲み込み、早いな)
やはりこういう作業に向いているのだろう。
真面目に取り組む分、上達も早い。
「……出来ました」
桜季が最後の糸を引き抜いて、そっと針を置く。
エプロンの上にはウサギのイラストと、その下に並ぶ『Saki』の文字。
少しだけ歪ではあるが、それがかえって手作りらしさを出している。
「ふふっ。刺繍、難しそうでしたが実際にやってみると楽しいですね」
「そうか。まあ、楽しめたのなら良かったよ」
好きこそ物の上手なれ、という言葉にある通り、桜季なら上達するのも早いかもしれない。
(それなら、もっと練習してもいいかもな)
そう思い、楽しそうにエプロンを眺める桜季に、蓮は更に提案する。
「それだったら、もう少し縫ってみるか?」
「え? あ、はいっ。ですが、何を縫いましょうか?」
「そうだな……」
勢いで言っただけで具体的なことは何も考えていなかったので、少し考えてみる。
このエプロンのイラストに更にイラストを追加するのはバランスが悪い。
それなら――
「じゃあ、イラストの上に文字でれっちゃんって書いてみるのはどうだ?」
「あ……はい。それ、いいかもしれません」
桜季は一瞬驚いたものの、蓮の提案に素直に頷く。
そしてチャコペンを手に取り、イラストの上にアルファベットでRecchanと書いた。
「それでは縫っていきますね」
「ああ。さっきの調子なら大丈夫だぞ」
「はい」
文字数こそ多いが同じことの繰り返し。
楽しそうに、先程行った内容を繰り返すように、桜季は文字を縫っていく。
しばらくして文字入れは無事に完成した。
「うん、いいんじゃないか?」
「ありがとうございます、蓮さん」
嬉しそうに笑ってエプロンを抱きしめる桜季。
ほっとしたように息をついてから、改めてエプロンを見つめる。
その視線には喜びと、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。
「これで本当に完成だな」
「はい……。わたしだけの、オリジナル……」
小さく頷きながら、そっと指先で刺繍部分に触れる。
「ここ、自分で作ったんですね……」
ぽつりと、そんな言葉が零れる。
「最初から全部出来なくてもいい。こうやって少しずつ覚えていけばいいんだよ」
「……はい」
桜季はもう一度エプロンを見つめる、そして――
「大切に使います」
はっきりと、そう言い切った。




