第40話 二人の秘密
三人共ハニージンジャーミルクを飲み終え、ひと息つく。
「さて、それじゃあ洗い物を片付け……」
そう蓮が言いかけたところでスマホが着信を知らせた。
画面を見ると相手は凜だった。
「悪い、ちょっと待っててくれ」
そう言って軽く手を上げると桜季も頷いてくれたので電話に出る。
「もしもし」
『おー蓮、今時間あるか?』
何かあったのかとも思ったのだが、スマホから聞こえてくる親友の声色はいつも通り。
特別何かあったわけではなさそうだ。
「大丈夫だぞ。どうかしたのか?」
『それなんだけどさ、先週にやった実験のデータ、まだ捨ててないか?』
「物理のあれのことか?」
『そうそう。それそれ』
先日物理の実験を行ったのだが、その際にレポートを作成した。
そのレポートデータがパソコンの中に残っているかということか。
「分からん。もしかしたら消したかも。まあバックアップ確認すれば大丈夫だと思う」
『頼んでいいか? すぐじゃなくていいけど、出来れば今日中に欲しい』
「十五分くらいくれれば送れると思う」
『了解、頼んだ。今度なんか奢るわ』
「気にすんなって。じゃあな」
短くやり取りを終えて通話を切る。
桜季の方を向くと、笑って頷いてくれる。
「わたしの方は気にしないで、そちらを優先して下さい」
「悪い、ちょっとデータ探してくるわ。だいたい十五分程で戻れると思う」
「はい、分かりました」
そう伝えると、桜季は微笑んだまま頷いてくれる。
桜季の優しさに甘え、蓮は一度寝室へと向かった。
✿
椅子に座りパソコンを起動する。
記憶を辿りながらフォルダを開くと、データはまだ削除していなかった。
(良かった。これならすぐに済みそうだな)
念の為にファイルを開くと、目的のデータが画面上に表示される。
(十五分って言ったけど、これなら五分で終わるな)
あまり桜季を待たせるのも心苦しかったのだが、思った以上に早く終わりそうで何よりだ。
メールソフトを開き、データを添付して凜へと送信。
スマホのメッセージアプリでデータを送った旨伝えると、すぐに凜から返信のスタンプが来た。
それを確認してパソコンをシャットダウンする。
(うん、早く終わった)
時計を見ると、予想通りまだ五分程度しか経過していない。
そこまで待たせることにならなくて良かった。
そんなことを考えながら、リビングへの扉を開く。
「悪い、待たせたな」
蓮が言いながら一歩踏み出したところで、それに気付いた。
視界の先では、椅子に座った桜季が何かをやっているところだった。
片手には小さなケースが持たれている。
蓮は使ったことがないが、おそらくコンタクトケースだろう。
もう片方の指先には、小さな円盤が載せられていた。
それだけなら、単なるコンタクトの交換シーン。
「え――?」
まるで予想外の事実に出くわしたような、驚きと戸惑いが含まれた桜季の声。
その声に、蓮は自然と桜季の顔へと視線が向く。
驚くようにこちらを見ていた桜季と視線がぶつかる。
その瞳を見た瞬間――
(……あれ?)
違和感が走る。
見慣れているはずの桜季の顔。
だが、どこかが決定的に違う。
(……黒じゃない?)
蓮を見る桜季の瞳、その色が、いつも見ている色と噛み合わない。
光のせい――ではない。
はっきりと、違う色をしている。
桜季は何か言おうとして、言葉が出てこないのか唇だけがわずかに動く。
呼吸が浅くなっているのが遠目にも分かる。
視界の端では、琴乃も桜季と同様に慌てたように視線が揺れている。
「…………黄色?」
無意識のうちに、蓮の口から言葉が漏れた。
次の瞬間、桜季の肩がびくりと震える。
真っ青な顔で震えながら口を開く。
「ちが、あの……これは……」
蓮の言葉に桜季は目に見えて動揺していた。
コンタクトケースが桜季の手から零れ落ちる。
視線が泳ぎ、何かを告げようとして、そして口を閉ざしてしまう。
(しまっ…………)
つい、感じた違和感が口から漏れてしまった。
その直前の桜季の様子から、安易に触れていい内容ではないことは明白だったのに。
「あ、その……」
フォローの言葉を探す。
しかし、覆水盆に返らず、との言葉通り、言ってしまった言葉はもう取り返せない。
言葉を迷っている内に、桜季が顔を逸らして立ち上がった。
「すみません……………………」
蓮の顔を見ることもなく、そう告げながら玄関へと走っていく。
「あ――」
呼び止めることも出来ず、玄関が開く音、そして閉まる音がリビングに響いた。
リビングに残されたのは、蓮と琴乃の二人。
そしてコンタクトケースと黒いカラーコンタクト。
「…………………………………………」
どれだけの時間が経過したのか。
正気に戻った蓮が琴乃の方を向くと、琴乃は複雑そうな視線で蓮を見上げる。
「うん。お兄さんは悪くないよ……」
「いや、だけど……」
今のこの状況は、蓮が桜季の瞳を――
「お兄さんは悪くない」
琴乃は同じように繰り返す。
怒りでも非難でもない、諦めたような感じで。
「ただ、ちょっとタイミングが悪かっただけだよ」
「…………瞳の、ことだよな?」
「気付いちゃったよね、お姉の瞳が黒じゃなかったの」
「ああ。黄色、いや、アンバーか?」
「うん…………」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜季は蓮の部屋を逃げ出した後、自室へ戻り寝室へと駆け込む。
椅子に座って頭を抱えてしまう。
「あ…………」
たった今の出来事が桜季の頭の中を駆け巡る。
蓮が寝室へと向かった直後、桜季は目に違和感を感じた。
『あっ……』
『お姉、どうしたの?』
『ちょっと目にゴミが……』
『大丈夫?』
『うん。コンタクト変えなきゃ』
蓮は十五分ほど席を外すと言っていた。
それだけあれば、コンタクトを交換するには充分だろう。
そう考えたのが失敗だった。
蓮が十五分以上かけてから戻ると決まっているわけではない。
そんな簡単なことに思い浮かばなかった。
コンタクトを外して、自分の瞳をさらけ出している時に開かれた扉。
そこから現れた蓮と目が合ってしまった。
『…………黄色?』
その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になってしまった。
何を言って良いか、まるで考えられない。
気が付けば、その場から逃げ出してしまった。
(蓮さん…………)
出会ってからずっと、優しくしてくれた人。
迷惑を掛けても嫌な顔一つせずに、力になってくれた人。
だからこそ、こんな『気持ち悪いと言われた瞳』を見られたくなかった。
(これからどうすれば…………)
いきなり目の前から逃げてしまったのだ。
蓮も困惑しているだろう。
いや、さすがの蓮も呆れたり、腹を立てているかも――
(――ッ!)
その想像に、背筋が震えてしまう。
蓮に嫌われる、その事が耐えられない。
誕生日に貰ったウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「蓮、さん…………」
コンコン
その時、部屋の扉がノックされた。
琴乃が帰ってきたのか、ふとそう思ったのだが
「桜季、話せるか?」
(……………………え?)
聞こえてきたのは妹の琴乃の声ではなく、蓮の声だった。
扉の向こうから聞こえてきた声に、桜季はびくりと体を震わせる。
驚きで息が詰まりそうになる。
「桜季?」
「あ…………」
言葉が出てこない。
あんなに失礼な態度をとってしまったのに、今更何を話せというのか。
「桜季?」
「蓮、さん…………」
ゆっくりと声を絞り出す。
すると扉の向こうから安堵するように息を吐く音が聞こえて来た。
「話せるか?」
「…………はい、少しだけ」
ぬいぐるみを抱えたまま立ち上がり、ドアノブに手を掛ける。
一瞬躊躇したものの、思い切って回してドアを開ける。
「あ…………」
そこに立っていた蓮は全く怒っている様子はない。
桜季を心配するような、それでいて、むしろ自分自身に罪悪感を感じているような表情だった。
それはある意味で予想通り、しかし今の桜季にとっては罪悪感を増幅させる。
「すみません、蓮さん……」
「いや、悪かった。びっくりさせてしまったな」
「そ、そんな……! 蓮さんが謝ることでは……!」
そう、悪いのは全て自分。
蓮が謝るのは筋違いだ。
そんな自分に、蓮はそっとカップを差し出して来た。
中に入っているのは牛乳。
「ほら、一度これを飲んで落ち着こう。ハチミツやショウガは入ってないけどな」
ニコリと笑ってそう告げる蓮。
その優しさに、桜季の目に涙が浮かんでくる。
(この人は…………)
何でこうも優しいのか。




