第25話 調理中のハプニング
ピピピ
家庭科室にタイマーの音が鳴り響き、蓮はそれを止めて皆へと向き直る。
「さて、そろそろいいかな」
卵焼きを作っている間にローストビーフの茹で時間が経過した。
こうして考えると空き時間を良い感じに有効活用出来た。
「それじゃあローストビーフの方に戻るか。お湯を捨てて焼いていこう」
「はい、分かりました」
蓮の指示を受けて中のお湯をシンクへと捨てようと桜季が鍋の方へと向かう。
だがこの鍋は五つの肉塊を茹でる為にそこそこ大きな鍋に多くのお湯が入っている。
必然的に重くなっているそれは、女子の中でも小柄な方の桜季が持つのは難しいだろう。
蓮は慌てて桜季を止めようと声を掛ける。
「っておい待った。それは重いからおれがやるぞ」
「いえ、大丈夫です。元々わたしの我が儘ですので」
今日のことを自分から言い出したことに負い目を感じているのか、そのままコンロから鍋を持ち上げてシンクへと向かう桜季。
だが、普段あまり料理をしないであろう桜季は、その重さをおそらく体験として知らない。
「渡利、本当に大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です」
気丈に桜季がそう答える。
そういえば最初に出会った時も、無理に荷物を持とうとしていた。
責任感の強い桜季としては、一度自分でやると言った以上、他人に頼れはしないのだろう。
が、傍から見れば今の桜季は明らかに危なっかしい。
やはり重いのか鍋を持つ腕はプルプルと震えており、力が入っているせいか顔は真っ赤になっている。
それでも一度やると言った以上、途中で投げ出すことは出来ないのだろう。
深紅を目指しながら左右にふらふらと振れてしまっている。
そして、やはりというか、予想通りの事態が発生してしまった。
「あっ!」
桜季の細腕には到底似合わない重量物。
その重みに寄り桜季はバランスを崩して前方へと倒れていく。
中に入っているのは熱湯。
このままでは大惨事になってしまうのは明白だ。
「危ないっ!」
その可能性を考えていた蓮は、倒れていく桜季の体を慌てて左手で抱き留める。
そして自分の体と右手で桜季の手から離れた大鍋を熱湯が零れないように何とか抱えようとする。
中の熱湯全てが勢いよく零れ、自分と桜季を襲うという最悪の事態は逃れることが出来た。
だが、それは鍋の中身が全て零れなかったというだけの事。
鍋の縁スレスレにまで注がれていた熱湯は慣性の法則に逆らうことはなく、コップ二杯分ほど零れて蓮の右腕を襲った。
「熱ッ!!」
思わず反射的に腕を引きたくなるが、そんなことをしてしまってはせっかく守った鍋から熱湯が零れてしまう。
「凜ッ!」
呼ばれるまでもなく凜が蓮の元へと駆けつけて鍋を受け取った。
「蓮、大丈夫か!?」
「ああ、まあなんとか……」
鍋を床に置いた凜に、蓮は腕を掴まれて蛇口の方まで引かれていく。
蛇口をひねり、ワイシャツの上から水を掛けて右腕を冷やしていく。
冷たい、とは言い難いがそれでも今の蓮にとっては有難い。
「す、すみません、光井先輩!」
「ちょっ、せんぱい、大丈夫!?」
手を冷やしていると、すぐに桜季と美鈴が駆け寄って来た。
桜季の方は蓮が熱湯を受けたことに対し罪悪感を感じているのか顔が真っ青だ。
「ほ、本当に、すみませんでした……」
これでもかというほどに頭を下げてる。
そんな桜季に対し、蓮は決して怒るでもなく
「気にするな。このくらいはまあなんてことはない」
そう安心させるように声を掛けた。
しかし桜季の狼狽は治まらない。
よほどショックだったのか、オロオロと視線は定まらずに頭を下げ続ける。
「わたしのせいでその……火傷を……」
そんな桜季を安心させるように、蓮は痛みを我慢して笑顔を作った。
水で右手を冷やしながら、ゆっくりと口を開く。
「だから気にするなって。ふざけていたんならおれも怒るけど、渡利はそうじゃないだろ?」
「で、ですが……」
「わざとやったんじゃないんだから、必要以上に謝らなくても良い。ただ今度からは自分に出来ない事を無理にやろうと思うな」
「は、はい……」
「それにな、少なくともおれも凜もくみちゃんせんせーも、それに白川だって、渡利のことを責めたいだなんて思ってない」
その言葉に凜がゆっくりと頷く。
蓮も凜も他人のミスに関しては肝要だ。
故意にやったことに対しては怒るが、真剣に取り組んだ結果としてミスをするのは仕方がないと思っている。
それが元で自分が不利益を被ることがあっても基本的には怒らない。
今回の件に関しても桜季の真剣さが悪い方に出てしまっただけであり、腹を立てているわけでもない。
「それにな、確かに熱かったけど別に沸騰していたわけでもないし、この程度じゃ火傷はしない。だから必要以上に気にするな」
「は、はい。ありがとうございます」
「ああ、謝るよりもそっちの方が良い。さて、それじゃあ次の工程に進むか。ちょっと着替えてくるから待っていてくれ。……くみちゃんせんせー、あそこにハーブティーあるから渡利と白川に淹れてあげて下さい」
「ええ、分かったわ」
久美子に棚を指差して場所を伝える。
とにかく今必要なのは、桜季に落ち着きを取り戻させることだ。
すぐさま久美子がお茶の支度を始める。
「うん ほらサッキー、しっかりして」
美鈴も桜季を励ますように声を掛け、一度椅子に座らせた。
そんな女性陣三人を横目に、蓮は凜と手当を始めた。
右腕全体が濡れてしまったので、バッグからジャージと予備のアームスリーブを取り出す。
一方で凜は家庭科室に備え付けてある救急箱から軟膏を持って寄って来た。
蓮が濡れたワイシャツとアームスリーブを脱いだところで、凜が心配そうに声を掛けてくる。
「蓮、大丈夫か?」
桜季と美鈴に聞こえないような小さな声。
その視線は、普段アームスリーブで隠れている右腕に向いている。
「ああ。正直言えば熱かったし今もちょっと痛いけど」
「いや、それもだけどよ、そっちじゃなくて……」
蓮の右腕を見ながら心配そうに問いかける凜。
そんな凜に蓮はゆっくりと頷く。
「別にあの二人に見られたわけでもないしな。まああの二人なら変な風には取らないだろうけど」
「……まあ、そうだろうけどよ」
それ以上何を言うでもなく、凜は軟膏を蓮の右腕に塗っていく。
一通り塗り終えたところで蓮はアームスリーブとジャージを着用した。
そのまま三人の所に戻ると、桜季がガタン、と席を立って駆け寄ってくる。
「あ、あの、本当に大丈夫ですか?」
「ああ。さっきも言った通り大丈夫だって。心配するな」
ハーブティーを飲んで多少は落ち着いたであろうが、心配を掛けないように蓮はにこりと微笑みを向ける。
「ほら、おれはもう大丈夫だから先に進むぞ。妹に美味しいお弁当を作るんだろ?」
「は、はい……」
そう言って話を打ち切って、弁当作りへと戻って行った。
✿
その後はトラブルが起きることもなく、無事にローストビーフが完成した。
出来上がったそれをタッパーに詰めて帰り支度をした桜季が頭を下げる。
「ローストビーフは明日厚め切ってご飯の上に載せれば良い。ソースは別の容器に添えてな。後はさっき作ったおかずを作り直して詰めれば遠足の弁当としては問題無いだろ」
「はい。本日は本当にありがとうございました。それと先ほどは本当にすみませんでした」
蓮の右手を見ながら再度桜季が頭を下げる。
蓮自身がいくら問題無いとは言っていても、桜季としては申し訳なさが消えるわけではないのだろう。
「だから気にするな。さっきも言ったけど今度から気を付けろ」
「はい。ありがとうございます。……それでは失礼します」
そう言って桜季は頭を下げて家庭科室を後にした。
「そんじゃあウチも帰るねー。せんぱい、ありがと。またねー」
美鈴も同じように桜季に続いて家庭科室を出ていく。
残ったのは蓮と凜、そして久美子の三人。
「あなた、本当に大丈夫なの?」
凜と同じで事情を知る久美子が心配そうに蓮の右腕へと視線を向ける。
蓮は半ば無意識に左手で右手を掴んでいた。
「……大丈夫ですよ。そりゃあ熱かったしまだ痛いけど、でも初期対応が早かったから大事じゃないですって」
「いや、それはいいのだけれど……」
心配そうな視線を向ける久美子。
何を言わんとしているのかは蓮にも分かる。
とはいえ、凜の時と同じでそれを掘り下げる必要はない。
「大丈夫ですよ。それじゃあおれ達も帰りましょう」
話を打ち切って、家庭科室を後にする。
そう、今回のことは、何も心配いらないから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
桜季は美鈴と並んで校舎を出る。
その足取りは少し重く、頭の中はさっきのハプニングのことでいっぱいだ。
(無理して先輩を火傷させてしまった……。わたしの我が儘を聞いて助けてくれた先輩に、火傷まで……)
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
謝っても謝りきれない。
「ねぇ、サッキー」
横で美鈴が声をかけてくる。
振り向くと美鈴はしょうがないなあ、と言った感じの笑みを浮かべて優しく桜季の肩を抱き寄せて来た。
「……え?」
「そんなに自分を責めないで。わざとじゃないんだし、せんぱいだって怒ったりしなかったっしょ?」
美鈴が自分の気持ちを読んで優しくフォローしてくれているのが分かる。
「……でも、わたしのせいで……」
「だから、だから大丈夫って。あの後だって、せんぱいは普通にしてたんだし。見てて分かるっしょ?」
美鈴は桜季の肩に軽く手を置き、微笑む。
桜季はその手の温もりに、心が少しほぐれるのを感じた。
むろん、桜季としても蓮が無理している可能性には思い至っている。
そして当然、この友人だってそれに気付かないほど鈍感ではないことは充分すぎるほどに理解している。
それでもこうして自分に寄り添って、元気づけようとしてくれている。
「それにしてもさ、せんぱいって優しいよね。むしろサッキーが気にしないように励ましてくれてたじゃん。だからさ、サッキーも気にしすぎちゃダメ。むしろもっとせんぱいに迷惑掛けちゃう」
「うん、そうだね……」
怒るどころか、むしろこちらの心配をしてくれた。
申し訳なさと共に、胸の奥でじんわりと温かい感情が広がる。
「ありがとう、美鈴……」
小さく呟く桜季に、美鈴は笑顔でふふっと笑い返した。
「ほら、もう心配しなくていいって。サッキーが落ち込んでるとせんぱいも困っちゃうしね」
桜季は深く頷き、少しだけ顔を上げて歩いた。
自分のミスを反省しつつも蓮と美鈴の優しさを感じ、帰り道は少しだけ心が軽く感じられた。




