第16話 アルバイトと隣人①
午前五時半過ぎ、いつものように自室で目を覚ました蓮は、そのままベッドの上で伸びをする。
「ふぅ……朝か……」
と言ってもいつまでも寝ているわけにもいかないので、二度寝の誘惑を振り払ってベッドから降りる。
眠気覚ましに洗面所で顔を洗い、歯を磨いてから身支度を整えると寝間着として使用しているトレーニングウェアの上からスマホや鍵などを入れたフリップベルトを着用して外へと向かう。
毎日の日課であるランニングだ。
さして都会というわけでも田舎というわけでもないこの辺りの風景はやはりいつもと変わらずに、道路にはまだ車も少なく歩道にも人を見かけない。
そんな中、いつものコースをいつものように走っていく。
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「よし、と。完成」
自分の部屋へと戻った後、シャワーを浴びてから私服に着替えて朝食の準備を始める。
今日の朝食は白米にベーコンエッグ、サラダ、味噌汁といった、ごく普通のメニューだ。
ベーコンエッグを皿に載せ、フライパンに水を溜めてから朝食をリビングのテーブルへと運びこむ。
大体六人程度で使うであろう広いテーブルへ朝食を載せた後、椅子に座って手を合わせる。
「いただきます」
誰に言うでもなく自然に言葉が出てくる。
この一年ですっかりと日課になった。
「うん、今日も美味しい」
自家製ドレッシングの掛かったサラダを頬張りながら、そう一人で呟く。
しかし怜の顔は美味しいものを食べているにもかかわらず若干の陰りがあった。
「はあ…………やっぱり寂しいな」
そう呟いた先の対面の椅子には誰もいない。
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一年と少し前、仕事の都合で蓮の両親が遠方へと引っ越しすることになった。
残る家族である年の離れた姉は既に結婚し、家庭を持っている。
本来であれば蓮も両親と共に引っ越しそちらの高校を受験することが普通なのだろうが、蓮は地元へと残ることになった。
残ることが出来たのは、結婚したとはいえ近所に住む姉の存在も大きかった。
加えて蓮の通う(当時は受験前で通う『予定』であったが)修峰学園の教師である久美子が後押ししてくれたことも大きかった。
それらにより蓮の一人暮らしが認められた後、両親は蓮の為に久美子の両親が経営するアパートを借りてくれた。
オートロックやモニター付きのインターホン、鍵は防犯性の高いディンプルキー、しかも間取りは2LDKというむしろ社会人よりも良い所に住んでいると思う。
知り合い価格ということでかなり安く借りることが出来たらしいし、何かあれば同じマンションの一室に久美子がいる(久美子も両親とは別に一人暮らし)、ということで蓮を大切にする両親も安心した。
そして始まった一人暮らしだが、最初から順風満帆とはいかなかった。
蓮としては自分の炊事、掃除、洗濯のスキルは問題無いと思っていたので、一人暮らしなど簡単に出来ると高をくくっていた。
しかし実際にやってみると、事態は想定通りとはいかなかった。
その際には姉や凜や凜の両親、久美子の両親、時々久美子が助けてくれて、失敗を繰り返しながら成長し、一年が経過した今は自分でもほとんど問題なく生活出来ていると思えるようになった。
とはいえやはり一人きりの食事というのは物寂しい。
こればかりは一年程度で慣れるものではなかった。
(まあ無い物ねだりをしてもしょうがないか)
そう考えながら食事を終えるとケトルでお湯を沸かしている間に手早く食器や調理器具を洗ってしまう。
そしてコーヒーを淹れて一息つく。
これで朝の慌ただしい時間は終わり。
普段であれば登校時刻までは制服に着替えること以外に特にすることはないのだが今日は休日。
しかし授業の代わりにアルバイトが入っているので準備を終えてコーヒーで一服。
少し早いがやることもないので部屋を出てアルバイト先へと向かうことにする。
エレベーターに乗り込むと、ふと声が聞こえて来た。
「すみませーん! 待って下さーい!」
慌てて閉まりかけた扉を開く為にボタンを押し声の方を見ると、蓮の隣の部屋から一人の女の子が走って来るところだった。
服装は蓮が一年と少し前まで通っていた中学のジャージ姿。
おそらく部活の練習か何かだろう。
女の子が走ってエレベーターへと飛び乗る。
「あ、おはようございます!」
顔を上げて笑顔で挨拶して来る女の子。
「おはよう」
「待っててくれてありがとうございます」
「気にしないで良いぞ」
たかが十秒程度、大した待ち時間ではない。
そう返事を返すと女の子はニコリと笑う。
「あはは、そう言ってくれると嬉しいです」
そうこうするうちにエレベーターは一階へと辿り着き扉が開く。
蓮は開のボタンを押して、女の子に先に出るように促した。
「お兄さん、ありがとうございます。それじゃあ」
そう言って女の子はエントランスから駆け出していく。
それを見て蓮もくすりと笑い、アルバイト先へと足を向けた。
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数分後、蓮はとある洋菓子店の前に到着する。
落ち着いた色合いの外壁を持ち、淡いクリーム色に縁取られた窓枠や柔らかな曲線を描く装飾が、どこかアンティークな雰囲気を醸し出している。
屋根は深いブラウンの瓦で覆われ、角には小さな塔のような装飾があって、モダンでありながらどこか古き良きヨーロッパの街角を思わせる。
店の前には小さな庭が設けられており、季節の花々や緑の観葉植物が並ぶ。
石畳の小道を挟んで植えられたラベンダーやローズマリーが、通りへも良い香りを届けてくれる。
ガラス張りの大きな窓越しにはショーケースに並ぶ色鮮やかなケーキや焼き菓子が見える。
パティスリー・エクラ・デュ・マタン。
ここが蓮のアルバイト先である。
この辺りでは有名な洋菓子店。
喫茶店ではないのだが、テイクアウトだけではなくイートインスペースも備えている。
入口の扉を開けると、アンティークベルの心地好い音色が耳に届く。
中に入ると甘い香りと心地よい空気が漂ってきた。
「あ、蓮」
「おはよう、ねーさん」
「うん。おはよう」
すると店内にいた女性、蓮の実姉である御厨旭、旧姓光井旭が笑顔を浮かべて寄って来た。
蓮も久しぶりに会う旭に笑顔を向ける。
「まだ時間に余裕はあるわよ」
「うん。凜はまだ?」
「ええ。まだアルバイトの時間までは時間があるからね」
エクラ・デュ・マタンでは蓮だけではなく凜もアルバイトをしている。
いつも二人が一緒というわけではないのだが、本日は二人一緒に入る予定だ。
「って言ってたら来たな」
ふと外を見ると、凜が到着したところだった。
凜もこちらに気付いたのか速足で店内へと入って来る。
「おはようございまーす」
「おはよう」
「おはよう、凜君。今日もよろしくね」
「はいっ!」
旭とも軽く挨拶を交わす。
そして二人でロッカーへと向かった。
白を基調としたシンプルなデザインの服に、首元にはスカーフ。
いわゆるパティシエの服だ。
蓮と凜はそれに身を包んで、鏡で自分の姿を確認。
適度な緊張感をもって更衣室を出る。
「それじゃあお互い頑張るか」
「おう。お互いにな」
コツン、と拳を軽く当てて、凜はカウンターの方へ、そして蓮は厨房へと向かった。
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「おはようございます」
「あ、おはよう」
「おはよー」
「おはよう」
蓮が挨拶をすると、スタッフ達が顔を上げて挨拶を返す。
基本的に優しい人達ばかりで、蓮も凜もこの職場はとても働きやすく気に入っている。
そのうちの一人が蓮の元へとやって来た。
「蓮。おはよう」
「おはよう、にーさん」
このエクラ・デュ・マタンの経営者である御厨陽翔。
蓮の姉である旭の夫であり、つまりは蓮の義兄。
昔からお菓子作りが好きで早い内からそちらの方へと将来を決め、若手向けの世界大会で優勝したこともある凄腕のパティシエだ。
そして蓮の幼馴染みであり、お菓子作りの師匠でもある。
年が離れているとはいえ昔から仲が良く、兄のように慕っている存在だ。
「今日も頼むぞ」
「うん。すぐに作業に入るよ」
「良し。手順はいつも通りだけど、今日は少し気温が高くなるからな。その辺りで売れ行き変わって来るぞ」
「了解。確認しながら進めるよ」
蓮は陽翔の言葉に頷いて作業台へと向かう。
そしてスタッフに混じり作業を開始した。




