身分証明書『戸籍』取得に向けて
明正世界がはんぱないことについて。
民は暮らしやすい国が良い。
帝都・東京に鈴子が来訪してから三日目の朝。
鈴子は〈考雲堂〉の居間で、う―――んと気持ちよさそうに伸びをした。
有斎たち風由との約束である三日目の今日。
晴れて彼女は、制限付きだが、ここでの自由を約束されたのである。
「有斎さん、あたし、もう自由なんですよね? この店に籠ってなくてもいいんですよね!?」
興奮気味にちゃぶ台越しの翁に詰め寄る鈴子。
「ふぉっふぉっふぉ。そうですのう。こちらで身元を証明するものが一切見つかりませんでしたからのう。自由を約束するしかありますまい。鈴子殿は異界からの『客人』決定ですじゃ。もう外を出歩いても構いますまい」
「やったー!!」
「………暫定、ですがの」
「え…………?」
「情報が出なかった。それはひとつの成果ですじゃ。ただ、鈴子殿が意図的に“存在情報を消した”、または“消された”という可能性も、極々わずかですが無きにしも非ず。それもまた、ひとつの可能性ですじゃ」
「そんなぁ……。有斎さん、疑い深すぎないですかぁ―――?」
情けない顔をしてがっくり項垂れる鈴子。翁は茶をしばき、
「仕事柄ですのう。いけない職業病ですじゃ。ついつい人様を疑ってしまう。仲間ですら疑ってしまうんですじゃ。人様に言えないことを我らはたくさんしてきましたからのう。仕方ないことですじゃ。ふぉっふぉっふぉ」
常に陽気な翁の顔に影が落ちた。哀愁を漂わせてジジイはお茶を飲む。
鈴子は頭を机に置いた。眉尻を下げてちゃぶ台に置いた腕に埋もれる。
「それってなんか、悲しいわね。有斎さん、あたしは信じてくれてもいいんですよ? だって無害ですし」
「それとこれとは、話が別ですじゃ」
にこっと微笑んで申し出ると、すぱっと切られた。
「ひどいっ、有斎さん! そんな食い気味に斬らなくてもいいじゃないですか!?」
「ふぉっふぉっふぉ。どちらにしても、鈴子殿が監視対象、という事柄は貴方がこの世界の理、るーると申しましたかのう? それに慣れるまで、どちらにしろ変わりませんですじゃ」
『郷に入っては郷に従え』ですからのう、と翁は自慢の白ヒゲをしごいて付け足す。
鈴子は納得して、座布団の上に座りなおした。
翁と同じように食後のお茶を嗜む。今日は緑茶だ。少し渋い感じがこれまたイイ。
「ああ、そゆこと。だけどあたしが自由になったことには変わりないのよね?」
「そうですのう。こちらでは、鈴子殿の行動をあまり縛りませぬが、ただ―――」
「なに? まだ何かあるんですか有斎さん」
「戸籍、というものも用意しなければなりませんのう」
「コセキ、ですか……? 産まれた時に身分を保証するというアレ? そんなもの、用意できるの?」
「風由の力をもってすれば、偽の戸籍も本物の戸籍もちょちょいのちょい……ごほん、こほん、いえ、できますとも! 前半は聞かなかったことにしていただきたくあい候」
「OK! 秘密ね。だけど、風由って本当に何者……?」
戸籍がちょちょいのちょいで用意できるなんて、ほんと、裏のヤバい仕事してるヒトみたい。もしくは政府関係者? なにそれ、ちょっとどころかめっちゃこわい。
「ふぉっふぉっふぉ。聞かないで頂きたく。ただ、風由は虐げられた民のため、我らの長が目的のため、創設された組織ですじゃ。それはともかくとして、鈴子殿の戸籍がないと本当に、貴殿が困りますからのう」
「そうなの? 例えば、戸籍がなかったら何に困るの?」
「医療保障が一切受けられませぬ。風邪を引いただけでも今のままだと、お金を払えず、命の危険性がありますのう」
「う~わ~……それはなんか、あたしが居たところでも聞いたことがある。国が税金で医療費を負担してくれるから、あたしたちは貧乏人でも治療費が安くなるのよね?」
「だいたい、そんなものですのう。この明正では、民の医療費はタダですじゃ」
「タダ!? それって無料ってこと!? お医者様はそれで大丈夫なワケ?」
「無論。医療従事者は公務員というものに分類され、民の税金を貰い、働いております。この帝都・東京では、この国の民だという【戸籍証明書】を見せれば、誰でも、どんな怪我や病気をしても、医療費は全額タダ! そこに貴賤も職の違いも関係ありませぬ」
どうやらこの明正は、医療制度がかなり整っているらしいことがわかった。
そして、戸籍を持っていない外国人や〈客人〉からは、その治療に見合った治療費ががっぽり取られていくらしい。ここで戸籍を所持しない。その後の大変さがこのことだけでも、よくわかった。
有斎の言葉はまだ続く。
「ただし、民草に混じって人を診る医者の中には、昔ながらの方法で、民から金を取る医者もいますがのう。そんなのは大きな病院のない片田舎のほんの一部ですわい。ほぼ全ての病院、医療関係施設が国営なのですじゃ」
ただただ鈴子は、感心の声を上げる。ふと気づいた。
「昨日泊まって今も寝ている楓李さんも? 確かあの人、本職は女医さんでしたよね?」
「左様。アレは民間の医者ですがの、腕は確かでございます。鈴子どのの御調はどこも異常なしと判断されましたな」
「それはいいんですけど、あたし、お財布持ってなくて………お金、払った方が良いんでしょうか?」
「ふぉっふぉっふぉ。心配召されずとも、もう小生らが先に払っております。アレはある意味で、風由専属の医者ですからのう」
茶目っ気たっぷりに告げられた内容に、鈴子は胸をほっと撫で下ろした。
「良かったぁ」
「鈴子どのには後で、小遣いを渡しましょう。長い付き合いになりそうですからのう。出世払い、ということにしておきましょうかのう」
「え? あたし、すぐに元の世界に帰る予定なんですけど」
「無理でしょうのう」
スパッと二度目、斬られたぁぁあああ! しかも今度もまた、食い気味で!!
「なんでですか!? 来る方法があるなら、帰る方法だってありますよね!? 果敢さんと三佐クンに聞きました。あなた方の長も異世界からの〈客人〉だって」
有斎翁の鷹の眼が鋭く細められて、わずかな怒気を発する。鈴子は震えて少し後ずさった。
「あとでアレらにはお仕置きが必要ですな」
ひっ……!と短く悲鳴を上げる。逃げて、三佐クン、果敢さん、超逃げて!!
有斎はすぅっと怒気を納める。鈴子はおそるおそる、元の位置に戻って、心なしか姿勢を正した。
「鈴子どの」
「は、はい!!」
「我らの長は確かに〈客人〉でございました」
「はい」
「鈴子どのは、あちらで、………どこかの世界で、死んだことがございますかのう?」
有斎の真摯な眼差しが体を射抜く。
死………? 死ぬって、臨終する、亡くなる、死んだから葬式をするのあの「死」よね?
「いいえ、ありませんけど。普通、ないんじゃないですか?」
鈴子は首を傾げた。
「―――そうですか。でしたら鈴子どのは、帰られる、可能性が、あるやもしれませんのう」
「ですよね! だからあたし、帰る方法をどうにかして探そうと思います」
元気に宣言する鈴子とは対照的に、有斎翁は少し、寂しげな様子だった。
それに気づかず、鈴子はあれやこれやと色々知ってそうな有斎に聞く。
「有斎さん! あたしが元の世界に帰る方法を知っていたりしません?」
「ふむ………鈴子どの、この世界に来た時、誰かになにかを云われませんでしたかな?」
ふと脳裏に声が駆け巡る。
―――血塗れ兎を封じちゃえ!
―――お願い、風由が、寿命以外で死なない未来を……。
―――わっちの間夫を救っておくれ。お願い……。
―――時が来たら、鍵をあげる。
「いいえ、ありませんけど?」
「そうですか。鈴子どの、嘘を吐かれるのですな。小生は悲しい、悲しいですぞ。よよよよよ……」
あ、そういえば有斎さんて、心が読めるんだった。失敗した。
「ええ、小生の隠叉は、心を読む妖怪【覚】と中国の神獣【ハクタク】ですからの。それでなくとも鈴子どのの考えていることはわかりやすうございます」
それって案にあたしをバカにしてない?
「いいえ? 無邪気な子供を見ているようで、微笑ましい限りでございます。まるで孫が戻って……おっと、失敬。なんでもございませんですわい」
この爺さん――
「この爺さん、失言が多いな」
「ど、どうしてそれを!? っていうか、心を読むの止めてください!! あ、さっき思い出しましたけど、サトリって妖怪、そうやって人の揚げ足をとる小狡い大猿ですよね? 趣味悪いですよ」
「失敬失敬。戯れが過ぎましたな。話を元に戻しましょう」
「なんの話でしたっけ?」
「戸籍の話ですじゃ」
「ああ! そういえば、医療保険無料化の他に、戸籍で得することはありますか?」
「街中の路線電車がタダ。路線バスがタダ。日本中のどこでも旅行費が割引。国鉄は無料。公営の施設の利用料が全てとはいいませんが、だいたいが無料になります」
めっちゃお得!! なにこの政府。本当に明治時代と大正時代に似た世界なの? 下手したらあたしが居た平成の世より進んでるよ!?
「なぜ無料かと申しますと、これは秘密でもなんでもないのですが、維新改革の時に我らが風由と一部の富豪たちが、政府にありったけの財を注ぎこみ、今も我らの上に居るお方が、政府の財布の紐をっているからでございます。他にも、税金も外つ国の他の国々に比べると少々、割高になっておりますが、その分、民たちは全体的に満足しております。維新でがんばった甲斐がありました!」
なんかよくわからないけど、なんだかすごいことはわかった。
しかも国債という借金もないっぽい。ダメだ。平成、負けたわ。
まあ、無料になるならなんでもいいわ。
「ああ、そういえば、鈴子どののような〈客人〉や外国の方が戸籍を取得すると、まともな職業につける、という利点がありますのう。よほど金に困ることがなければ、吉原や島原などに身売りに出されることがございません。国が身の安全、最低限の生活の保障をしてくださいますのでのう。ふぉっふぉっふぉ」
なんかさらっと怖いことを言われた気がします!!
つまりなにか!? 今のあたし、もしかしなくても、もしかして、身売りの危険性があるの!? 身売りってあれだよね!? 売春! 男の人に無理やり犯されちゃうやつ。嫌だよあたし!! ぜったい戸籍を取得しよう。そうしよう。
「有斎さん、戸籍ってどうやったら取れますか?」
青い顔になった鈴子は、すがるような瞳で翁を見上げた。
「鈴子どの、鈴子どのの性は“八日町”でしたのう?」
「はい。数字の八に日曜の日、町はそのまま人が住む町です」
「ならば姓を同じくする“八日町”という新華族の子爵家がありました。鈴子どのはそこの養子の娘、ということにしていただきたく……」
「え? それって、あたしが貴族になるということですか? いやいやいや、冗談、ですよね? あたしだってあっちに家族がいますし、養子だなんて、そんな、急にいわれても……」
「あっちの家族はあちらで大事にすればよろしいではありませんか。こちらで戸籍がないことの方がよほど問題。鈴子どの、戸籍がないということは、お国が助けてくれないということです。小生も鈴子どのが困っていたとしても、助けの手を差し伸べることが少々、難しくなるかもしれません」
そこで愍そうに一呼吸を置く。
「戸籍がないということは人に非ず。外つ国の方ならば、旅行者ということで、また別の免除が利きますが、今の鈴子どのは、犯罪者に仕立て上げられてもなんの御調べもされず、首チョンパされることもありえるのですぞ? 命の危険はすぐ隣合わせ。この世界の者でないということは、誰からも後ろ盾がない、ということと同意義のことなのですじゃ。察してくだされい。小生は縁あった鈴子どのを少しでも、危ない目にあわせたくないのですよ」
有斎さん、マジでジェントルマン。
ちょっとこわい所もあるけれど、いいヒト……。
ちょっと感動しちゃったじゃない。
「ちなみに、すでに渡りをつけ始めておりますが、八日町子爵家の義理のご令嬢になられる方が、鈴子どのにとっても違和感なども少のうございます。かの家の子女は真名に“鈴”の字を入れることが習わしらしいですからのう。ついでといっては何ですが、小生の義理の孫になっても――」
「わかりました。あたし、八日町のままでいるため、その子爵家?の義理の娘になります。ていうか、すでに渡りをつけはじめてるんでしょ? じゃあ、ちゃっちゃとやっちゃってください」
にこっと笑って云い切ると、有斎は何故か落ち込んだ様子で項垂れた。
「どうしたんですか? 有斎さん」
「いえ。なんでもございません。では、そのように」
「はい! お願いいたします」
有斎が湯呑を持って、台所へ消えていった後で、二階から階段を下りてくる人の足音がした。がらっと白いフスマが開いて、医者の楓李が顔を覗かせる。
台所で水が流れる音を聞いて、女医は鈴子の方をくるりと向いた。
今日は鮮やかなモダン柄の着物で、後頭部で髪をお団子に纏めて、金色の洒落た簪をさしている。健康的に白い肌には薄化粧。起きたばかりだろうに身支度はもう整っているようだった。
「鈴子ちゃ~ん。有斎さんに伝えといて~。わたしもう帰るわ~。ごはんおいしかったっていっておいて~」
「はい、わかりました」
「ああ、そうそう~。鈴子ちゃん~」
「なんですか?」
「今度は一緒にお買い物にでもいきましょうね? 果敢ちゃんも連れてくるから。あの子、お仕事柄かしら~? 楽だからって制服ばかり着用していて、お着物がすくないの~。鈴子ちゃんのも見立てて贈り物してあげるからいらっしゃい。夏が終わったら秋もの、冬が来たら冬もの、春が来たら春物を揃えなきゃ。女の子は季節によっておしゃれを楽しむの。じゃないと粋じゃないじゃない。考えておいてね? 約束よ?」
楓李は要件だけ告げると顔を引っ込め、フスマを閉める。鈴子の返事も聞かずにだ。
「え、あ、ちょっと!?」
すぐに鈴子はふすまを開けて、店につながる開け放たれた扉の先を見た。
晴れた昼前の空を背景に、楓李が軽く頭を下げて、手を振って去っていく。
どうやら拒否権はないらしい。鈴子はしかたないな、と苦笑した。
「鈴子どの、楓李どのは……?」
後ろからひょっこり有斎が顔を覗かせて問いかける。
「帰ってしまわれました」
「午後は共に古書堂にと思っておりましたが……先に帰られたのならば、仕方がありませんね」
「古書堂って、有斎さんたちの長という方が経営されているという……?」
「そうですのぅ。鈴子どの、まずは戸籍取得のため、貴殿の今後の生活費をせびるためにも我らが長、紫楽様に会いに行きますぞ!」
「はい!!」
ん? あれ?………有斎さん、あたしの生活費を今、“せびる”とおっしゃいませんでした……?
せびる――ねだる、もらう、せしめるみたいな言葉。
質問、感想、その他あれば、常時、お待ちしております。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




