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玻璃(ビイドロ)の風が吹く②


 巣の修繕がすっかり済んでから、既に二日が経過していました。

 完成した巣網のすぐ上の葉のうえに、仕事を終えた彼は横たわりました。それっきり、二日間そこを動いていませんでした。稀に落ちてくる朝露を飲もうと口元を動かしましたが、端から見れば微風が吹いたほどにも思えないわずかな動きでした。

 獲物を待機している間、彼はいつもこの調子でした。無駄な体力を使えば身が保たなくなるという、彼なりの哲学に基づいた行動でした。その代わり、餌が掛かったときの彼の動きは黒き矢羽のごとく迅速でした。長くその動きを保つことは出来ませんが、瞬発的な速さなら「疾風の君」にも劣るまいと彼は自負していました。


 彼が寝転んでいるのは万年青の葉の付け根の辺りで、そこは日中の熱い陽も差さず、逆に冷たい夜風や雨も凌げる快適な場所でした。まして重なり合った葉の間から、天窓のように空を臨むことが出来るのです。彼はここに横たわってまどろみながら、夢を見、あるいは色々なことを考えていました。それは他のせわしない虫達には決して出来ないことでした。しかしそれが役得かどうかは、彼自身も首をひねってしまうところでした。彼にしてみれば、もっとたやすく獲物が手に入れば、それに越したことはないのでした。時折彼は葉の横合いの隙間から外界を覗き見つつ、多少の理不尽さを感じることがありました。

 たとえばそこの樹木の幹に居る、(くろがね)色の「木を征く殿」などは、そのいかめしい姿とは裏腹に甘い樹液さえ手に入れば生きられる虫でした。時折仲間同士で争うこともありますが、不満があればその翅で他の木に飛び去れば済むことです。または、傍の低木の青葉にしがみついて、もぞもぞしている青いいも虫―― つまりは「花舞う姫」の幼虫(こども)ですが、彼はそこまでは考えていませんでした。彼は、これを他の種族としてのみ見ていましたから―― などは、歩いているところが食べ物です。嵐に遭って吹き飛ばされでもしない限り、彼らは始終好きなだけ葉を食べ続けることが出来るのです。これは彼にとっては非常な不公平に思えました。

 しかしそれも所詮は結果論でした。彼に用意された現実は、ひたすらここで餌食を待ち、自分が力尽きる前にそれが現れてくれることを願うことのみでした。


 この日、彼は瑠璃色に晴れ渡った空を見上げて、ただ意識が浮き沈みするままに任せていました。巣の修繕に体力を使ったうえに、先日の狩り以来まる一週間何も食べていないのです。もはや何か考えることすら、彼にとっては無駄な浪費でした。

 このような無防備な姿を、長っ翅含む他の虫達が見たらどう考えるだろう。彼はふとそんなことを思いました。大したことのない奴だと思い直し、「()()(たま)(ひこ)」などという大層な呼び名は剥脱されてしまうかもしれない。

 他愛もない空想をしながら、彼はなんとか空腹を紛らわそうとしていました。実際、このまま朽ち果ててしまうのは辛く無念なものでした。そうやって干涸びた自分を見て、長っ翅は溜息くらいつくだろうか。蝉たちはそうして、「射干玉彦」のあまりに惨めな最期を、さも悲劇的に歌い上げるのだろうか。

「まっぴらだ!」

 そう叫んだつもりでも、喉が渇れていて囁きほどにしか聞こえませんでした。彼は跳ね起きると、万年青にたまった露だけでも飲もうと葉っぱたちを見上げました。

 外には煩いほど鳴り響く蝉時雨(セッション)も、ここではくぐもった静かな旋律(メロディ)に聞こえてきました。

最近彼の巣に掛かる者がいないせいか、蝉たちは曲目を変えてしまったようでした。もう「射干玉彦」を表す響きは聞き取れません。

「あいつらに鎮魂歌(レクイエム)を奏でられるくらいなら、(おんな)にでも喰い殺された方がまだしもだ。」

 耳に染み入るような蝉時雨を聞きながら、彼は呟きました。不機嫌そうに再び寝転ぶと、今度はかの万年青の天窓を見上げます。瑠璃色の空には、相変わらず穏やかな明るさが在りました。

―― ふと、彼はその明るさのなかに、染みのような黒い影を見つけました。黒いガラス玉のような彼の眼球を、その影は舞うように滑っていきました。

「優雅なものだな……」

 彼はそれが「花舞う姫」であることを知っていました。この天窓から、彼女らがひらひらと横切っていくのを彼はよく眺めていました。「疾風の君」のような速やかさはないが、羽音も立てず、独特のリズムを持って翔んでいく様は、穏やかな叢雲を思わせました。そして彼は、彼女らの緩慢な飛行を見るのが好きでした。

 逆光に照らされ、やがて去ってゆく蝶たちのはばたきはささくれた彼の心を優しく鎮め、いつのまにか眠りへと(いざな)っていきました。


 気が付くと、彼は瑠璃色の、蒼茫たる天空を駆けていました。

 周りはすべて青。彼の頭の上も、目の前も、そして足元も全て、四囲の風景は鮮やかな青でいっぱいでした。

 風の流れに乗って彼は往きました。どこへ往くかは解りませんでしたが、そのまま風に従っていけばいいという確信がどこかにありました。天翔るのは非常に快く、また穏やかな安心感に包まれていました。そう、彼が知らないはずの母親―― に、抱かれている気分にすらなりました。

 前方の青が、きらきらと揺らめいていました。彼の目の前を黒い影が横切っていきます。それが自分にとても近しい存在であることを、彼は無意識のうちに知っていました。慌てて、こんな言葉を投げ掛けます。

「そっちへ()くなよ。」

 自分でも、どうしてこんな言葉が出てくるか解りませんでした。ただ、みんなあまりに従順に煌めく青の方へ向かうので、彼は恐くなりました。

「往くなってば!」

 叫んでも、黒い影はどんどん通り過ぎていきます。そして自分も次第にそちらの方に運ばれていくのが解りました。彼は身体を動かしました。

「ダメだ! そっちは――だ!」

――何だって?

「そっちに往ったら、ダメだったら!」

 必死で叫ぶ彼の前方に、広大な、青と光の渦のようなものが見えました。風がそっちへ向かっていきます。無数の黒い影が、その中に吸い込まれていきます。彼はもがきました。

「ダメだ!」

――なぜ?

「だってそっちは――」

――そっちは。

 もがいた末に、彼は気流から投げ出されました。途端に彼は物凄い勢いで落下しました。重力の中心へ、頭が下になり、脚が蒼天に投げ出されます。彼の身体が、無慈悲な空気に冷たく切られていくのが解りました。

「どうして往くんだ!解っているくせに!そっちが――」

――〝海〟だということを。

 そうして、彼の意識はふっつり途切れてしまいました。


 何かの気配を感じて、彼は飛び起きました。(こうべ)を廻らし、寝起きとは思えぬほど鋭い眼差しを、隈無く万年青の梢の中に送っていきます。

「!」

 ぴんと張り詰めた糸のように、彼は全身の神経を研ぎ澄ましました。そして彼にしか解らない合図を聞くと、伸縮限界を越えた糸がはち切れるように彼は万年青の外へ飛び出しました。恐ろしい勢いで葉を飛び移り、ある場所へと向かいます。その素早さは、まさに黒い疾風のようでした。

 巣に降り立つ直前、彼の慧眼は巣網に二つの影をとらえました。巣には、一遍に二つもの獲物が掛かっていたのです。これは、巧みな彼の罠においても奇跡に近い偶然でした。そして今の彼にとってはこの上もない恩恵でした。糸を紡ぐ手も、おのずと軽くなります。

 巣に降り立つと、まず目に入ったのは小さめの羽虫でした。その振動に、羽虫は怯えた表情でこちらに向きます。その黒々とした姿を見て、何か口走ったようでした。しかし彼は気にも留めず、恐ろしく俊敏な手つきで糸を掛けてしまいました。羽虫はしばらくもがいていましたが、彼の紡ぐ銀色の糸は粘液のある強力なもので、一度獲物に絡み付いたら決して解けはしません。身体に食い込むがんじがらめの糸が苦しくて、そのうち羽虫は気を失ってしまいました。

 その頃彼は、もうひとつの獲物の方に向かっていました。そしてそのまま、獲物の前で立ち尽くしていました。彼の目に映っているのは、今まで見たこともないほど大きく、美しい生きものでした。細くしなやかな肢体、風なびく草のようにぴんとしなる触角、そして美事な翅、今日の空に染め上げられたようなその瑠璃色―― それが何であるか、彼には解っていました。彼が幾度も、あの万年青の天窓から見上げていたあの生きものでした。

「花舞う姫」……間近で見るのは初めてでした。逆光のなかでは気付かなかった。なんときれいな虫だろう……彼らしくもなく、彼はその生きものに見惚れていました。

 どれほど時が流れたでしょう。そよぐ風の音に、思わずはっとなりました。彼は糸を紡ぐ自分の手がだらりと垂れているのに気付きました。

(何をしているんだ俺は?)彼は心の中で自分を叱り付けました。(縛り上げなくては……また巣を破られたらどうするんだ?)

 しかし自分のなかにまるきりその意志がないことに、彼は苛立ちました。よく見ると、この生きものは気を失っていました。考えてみれば当たり前のことでした。そうでなければこの生きものもまた、先程の羽虫のように彼の姿に怯えて暴れたでしょう。彼の姿は他の善良な虫達にとって恐怖そのものなのです。

(しかしあながちそうとも言いきれまい。)彼は自答しました。(たとえ意識がはっきりしていたとしても、この虫は逃げられはしまい。)

 この蝶の翅の根元は、わずかに傷ついていました。こんな小さな傷でも、この虫たちの繊細な翅にとっては致命的であるということを、彼は見て取ったのでした。

 それを認めた瞬間、彼のなかに不思議な考えが生まれました。この蝶をすぐに食べずに、自分の手元においておきたいという願望でした。当然、この虫を糸で縛り上げることもせずに。翔べないのだからその必要はないという判断でしたが、その実彼の糸によってかの蒼い翅を傷つけたくないという思いが先に立っていました。

 考えは実行に移されました。彼は自分の寝床にしている万年青の葉に蝶を運び去ると、静かに横たえました。そして早速先程の羽虫を食べようと、元の巣網に向かっていきました。もう、彼の空腹は限界に達していたのです。


 彼は自分の行動に、自分なりの理由を付けて納得していました。つまり彼が蝶をすぐに食べなかったのは、いつ掛かるとも知れぬ獲物を待つまでの蓄えにしようとしたからだと。

 ともあれ、彼は八分くらいまで満たされたお腹を抱えて先程の寝床に戻りました。また一眠りしようと思ったのです。そこで彼は、例の生きものを置きっぱなしにしてきたことを思い出しました。思わずぎくっとしました。気を抜いていたところに、真っすぐな蒼い

視線が飛んできたのです。

 かの蝶は目覚めていました。翅と同じ色をした瞳をいっぱいに見開き、彼の姿を静かに見据えていました。恐怖でも警戒でもなく、単にびっくりしているようなその視線に、彼は思わずたじろぎました。睨み付けることはあっても、逆に他の生きものにこれほどじっと、まともに見られたのは初めてだったのです。

「……お目覚めか。」

 間が保たなくなって、気の抜けた一言を彼は発しました。その声は、自分でも驚くほど穏やかで優しく響きました。(なが)()が聞いたら吹き出してしまいそうな声です。

「気分は?」

 もう一度、彼は呼び掛けました。蝶は身じろぎもしません。不審に思って、彼は蝶に近付きました。蝶は、それでも動きません。内心彼は驚きました。普通、虫達は彼の姿を見ただけで血相を変えて逃げ出すというのに、およそこの蝶は度胸が据わっていました。

(それとも、単に俺のことを知らないだけか。)

 そんなことを考えつ、彼は蝶の一歩手前で立ち止まりました。見ると、蝶は雌のようでした。まだ若く、成虫(おとな)になってからいくらも経っていないように思えました。

「言葉が解らないのか?」

 再度、彼は呼び掛けました。蝶は一瞬周りを見回し、再び彼に目を向けると、ゆっくりと口を開きました。その動作は、非常に緩慢でした。

「いえ、解ります。」

 ぎこちない口調で、彼女は口を利きました。

「そうか。ここが何処だか解るか?」

彼女は、やはりゆっくりと(かぶり)を振りました。

「なるほどな。」

 呟くと、彼は彼女の目線の高さに合わせてしゃがみこみました。

「気付かないか?」

 彼はそっと、その手で彼女の翅に触れました。やわらかい翅でした。触れたところから、くずおれるように鱗粉が散りました。

「おまえの翅は相当傷んでいる。それでは当分飛べまい。」

 その粉の散り方があまりに脆くて、彼は自分の爪が翅を傷つけそうで、手を引っ込めました。本来なら、彼らを傷つけるためにある爪を、です。

「癒えるまで、ここにいた方がいい。」

 彼女は一瞬考え深げに視線を伏せ、そして言いました。

「あの、どうして私はここに?」

「そんなこと知らない、飛べなくて()っこちたのだろう。そこで気絶していたから運んできたまでだ。」

 彼の舌は、巧みに嘘を紡ぎだしました。とにかくも、しばらくの間は彼女をここにつなぎ止めておかなければならなかったのです。おまえを食べるためだ、なんて言ったら、翅が使えずとも這ってでも逃げるかもしれません。獲物を騙すなんて彼の美学に反しましたが、それでもいつまた獲物がぷっつり絶えるか知れないのです。

「どこまで覚えているんだ?」

 その嘘を覆い隠すように、彼は再び問いました。

「青い空……」

「え?」

 しばらく黙って、彼女は穏やかに答えました。

「青い空を、翔んでいました。」

「それで?」

「風が吹いていました。」

 彼は少し苛立ったように目を細めましたが、慌てて元に戻しました。

「風が?」

「それから、下が青く光っていて……」

「青く……」

 思わず彼は、先程の自分の夢を思い出しました。

「それから?」

 蝶は、それきり言葉を発しませんでした。答えに詰まったようで、蒼い瞳に困惑した光を浮かべていました。

「まあ、いい。あまり無理をするな。」

 そう言うと、彼は本当に一眠りするために立ち去りました。

 それにしても、そのはばたきと同様、なんとおっとりした性質の持ち主か。彼女をすぐ上の葉から見下ろしつつ、彼は考えました。

(良く言えば優雅だが、悪く言えばのろまな虫だ。他の連中には考えられない。)

 しかし、不思議と不快感は起こりませんでした。

 彼は彼女が再び眠りに就いたのを認めると、まもなく自分も眠り込みました。


 翌朝になって、彼は慌てました。目覚めてふと見下ろすと、彼女がぐったりしているのです。暑さもまだ穏やかな早朝でした。

(どうしたって言うんだ?俺は何もしていないぞ。)

 とりあえず下に降りて近寄ってみましたが、苦しげに目を瞑ってそのままです。翅も触角も、力なくだらりと垂れていました。

(暑さに当てられたわけでもない。病気か?)

 触れると、まだ幾分かの温もりは在りました。息はあるようです。彼は彼女を前に独り途方に暮れました。原因をあれこれ、悶々と考え込みます。

(どうすりゃいい。蝶の病気なんて、俺は知らんぞ。それとも寄生虫か?だとしたら厄介だが……)

 彼の脳裏に浮かぶ考えはろくなものではありませんでしたが、しばらく考え込んで出た結論は、もっとろくなものではありませんでした。何のことはない、彼女は飲まず喰わずで精が尽きていたのです。獲物を待機するのが日常である蜘蛛(かれ)と違い、蝶である彼女はお腹が減るのも速いようでした。

 とはいえ、いざ餌はといっても蝶が何を食すかなんて彼は知りませんでした。間近で姿を見たのも昨日が初めてなのです。とりあえず水だけでも与えようと思って、彼は万年青に溜まった朝露を与えてみました。手に掬い取ったそれを彼女の口元に持っていくと、彼女は露の薫りに気付いてか、蒼い瞳をさっと見開くとこくこくとそれを飲みだしました。

どうやら口には合ったようで、彼はそれを見てほっと息を吐きました。とにかく、自分が食べる前に彼女が死なずに済んだのですから。

(それにしても不思議なものだ。)露を飲む彼女の無邪気な顔を見つつ、彼は思いました。

()()(たま)(ひこ)ともあろう者が、一匹の虫にこんなに手を焼いている。)

 いま、彼女に襲いかかれば、彼女はそれに歯向かうことも出来ずに彼の手に堕ちるでしょう。それほどに彼女は、彼にしてみれば弱い生きものでした。しかしそれでも、彼女は自分の前にこうして生きています。生きて、自分のように腹を空かせ、食べ物を求めているのです。それは彼にとって、当たり前ながら不思議なことでした。彼は今までこの万年青から、色々な生きものを見、あるいはそれに触れ、命を摘み取っていました。でもその彼らに、自分と同じものを感じたのは初めてでした。


 それからというもの、彼は葉っぱの上で昼寝をする以外に、もうひとつ日課を増やすことになりました。朝露と夜露、日に二度ばかり万年青の露を掬い取って彼女に与えることでした。身体を動かすのは面倒なことでしたが、この梢を動き回られるよりはましでした。彼女があの罠を見てしまう危険性があったのです。どんなに若く無知な虫でも、あの巣をまともに見れば彼がどんな生きものであるか解ってしまうでしょうから。

 彼は露の他にも、万年青の千切ったのや、搾り取った草の汁など、手近なものを彼女に与えてみましたが、咀嚼機能が弱いらしく葉は食べられないし、草の汁は渋くて飲めないようでした。結局彼女は露ばかりを飽きもせず飲んでいました。よくそれで身が保つものだと、彼自身不思議でなりませんでしたが、現に彼女はこうして生きているので何も問題はないようでした。

 本当の餌は何なのか、と、本人に聞いてしまえば手っ取り早かったのでしょうが、彼はなぜかそれをしようとしませんでした。もしそれがここにないものなら、聞くだけ無駄だと思ったのかもしれません。

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