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玻璃(ビイドロ)の風が吹く③


〝花舞う姫よ

 花舞う姫よ……〟


 蝉時雨(セッション)の重奏は凄まじいものでした。その合間を縫うように飛びつつ、(なが)()は知らず知らずのうちに焦らされていました。

「まったく、えらい事件が起こったもんだ。」長っ翅は独りごちました。「まさかとは思うが……。」

 彼の翅は空を切り、やがて万年青の梢に降下していきました。そこで彼は意外なものを発見しました。あの射干玉彦が、葉のうえにぽかんと座り込んでいるではありませんか!

()()(たま)(ひこ)!」

 面食らって、長っ翅は叫びました。しかしそこからは遠すぎて、彼の声は蝉時雨に掻き消されました。彼は更に近付きます。一体どうしたというのでしょう。いつも影のように梢のどこかに潜んでいる射干玉彦が、日に姿を晒しているなど考えられないことです。

「射干玉彦!」

 今度は声が届いたようでした。射干玉彦はさっと面を上げると、あの黒い瞳に警戒の眼差しを浮かべました。

「何だおまえか。」長っ翅の姿を認めると、彼はその眼差しを消しました。「何の用だ、まぎらわしい。」

「まぎらわしい、だって?」長っ翅は不審の表情で答えました。「そっちこそ、一体何をしているんだ?あんたらしくもない、こんなところで陽なたぼっこなどと。」

 その言葉に、彼は笑ったようでした。

「質問したのは俺だ。先に答えるのが礼儀というものだろう。」

 長っ翅はその笑いが、いつもの陰影を帯びていないことに気付きました。

「〝花舞う姫〟さ。」長っ翅は答えました。「その〝蒼き一族〟が、この辺りに渡ってきたのをおそらくあんたも見ているだろう。」

「ああ、知っている。」

 射干玉彦は、また笑ったようでした。

「その内の一匹が行方不明なのさ。巷じゃ今、大騒ぎになっている。」

「それも知っている。」彼の眼は、明らかに笑いをこらえていました。「蝉どもの歌を聞いていたからな。」

「あんたは何か知ってるんだろう?その姫君は――」長っ翅は次第に苛立ってきました。

「この辺りで姿を消したんだ!」

 堪えかねたように、射干玉彦は笑いだしました。その哄笑は、しかし乾いた鐘の音のように明るく響きました。

「おまえが何を言いたいか知らんが、」彼はまだ笑っていました。「その勘の鋭さは誉めてやるよ。ここに来たのはおまえ自身の判断だろう?」

 長っ翅はむっとして答えました。

「ああ。」

「それで、おまえは何が望みか?」

「何だって?」

「何が欲しくてここに来たんだ?」

 長っ翅は返答に詰まりました。射干玉彦はその様を楽しむように見つめています。

「どうやら自分でも解っていないようだな。」彼の黒い眼が光りました。「……いいだろう、ついて来い。」

 すると、彼はすたすたと葉の上を歩いていきました。長っ翅は訝しみながらも、その背中について翔んでいきました。

 長っ翅がある葉の端に降り立つと、射干玉彦はその反対側に立ち、葉っぱの間を指差しました。そこから覗いてみろというのです。長っ翅はそちらの方に向かいました。

「おまえの見たいものが見られる。」その背中に射干玉彦は呼び掛けます。「ただし、声を立てるな。」

 長っ翅はその葉っぱの間を覗き見ました。中はひんやりした日陰でした。―― 始め、彼は空だと思いました。集まった露の雫が、蒼い空を映しているのだと思ったのです。それは蒼く鮮やかな光でした。次第に薄闇に目が慣れて、それが何なのか解った瞬間、長っ翅の全身に衝撃が走りました。

(こいつは――!)

 それを見て、射干玉彦が後ろでにやりと笑みました。

(なんてこった!)

 そこには蒼い蝶が眠っていました。間近で見るのは、長っ翅自身も初めてでした。さっき空だと思ったそれは、瑠璃色の大きな翅だったのです。日陰でぼうっと光る青色に、長っ翅はしばし見惚れていました。

「おまえはそいつが俺の罠に掛かったと思ったらしいが、」やがてそこから目を離した長っ翅に、射干玉彦は言いました。「まあ、半分当たっていたわけだ。」

「どういうことだ?」

「何が?」

 長っ翅は単に驚いたというより、愕然とした表情をしていました。

「どういうことなんだあれは……あれは、生きているのか?」

「死体をあんな所に置いておく趣味はないがな。」

 射干玉彦はとぼけた口調で答えました。

「何てこった……」

 長っ翅は、その場に座り込みました。

「どうした?〝花舞う姫〟の実物を見たのがそんなに衝撃的だったか?」

「射干玉彦。」長っ翅の口調はいつになく深刻でした。「あんたがどういう目的であれを生かしておいているのかは知らないが、悪いことは言わない、早く喰っちまった方がいい。」「ほう、おまえらしくない言い方だな。」

 彼は、そんな長っ翅の様子にわずかに驚いたようでした。

「あんたの言ったとおり、俺はかの姫君があんたの巣に掛かったと思ったよ。そしてあんたがそれを餌食にしたとも。なるほど、俺の勘は半分は当たっていた。そして半分ははずれていた、いちばん悪いほうにね。」

「どういう意味だ?」彼は目を細めました。「俺は単に、あいつを非常食代わりに生かしておいているだけだ。それのどこに問題がある?あいつの同胞(なかま)が、俺に復讐しにくるとでも言うのか?」

「いや、あいつらはとうに空の彼方に飛び去ったよ。」長っ翅は答えます。「だがその方がましかもしれないな。とにかく、あんたはなるべく早くあれを殺すことだ。あんたがあれの世話を焼いているのなら、なおのことだ。」

 長っ翅はそう言い切ると、立ち上がって葉の端に歩いていきました。

「おまえに言われずとも、遠からずそうなるだろうさ。もう三日も獲物が掛かってないしな。」

 射干玉彦の言葉に、一瞬だけ長っ翅は振り向きました。

「……そうなることを願うね。」

 そう言い残すと、長っ翅は翅を開いて飛び去っていきました。

「どうでもいいじゃないか。」飛びつつ、彼は独語しました。「そうだ、何だってわざわざこんなことを言いにきたんだ?ほっとけばいいじゃないか、勝手に滅びるのをほっとけば……」

 その声は、蝉時雨に掻き消されて何処にも響きませんでした。

「何だ?あいつは……」

 夏木立のなかに消えていく長っ翅を見つめ、射干玉彦は引っ掛かるものを感じました。らしくない。彼は何を伝えにきたのだろうか。

 しかしそんな疑問も、そのうち消え去りました。彼は蝉時雨に背を向けると、滑り降りるように葉の影に入っていきました。――「彼女」の眠る方へ。


 彼が傍に寄ると、彼女はさっと目を開きました。そして、彼の手元に目線を落とします。

「残念、露はまだだ。」

 その様子に気付き、彼はからかうように言いました。

「そんなこと……」彼女は恥ずかしげにうつむきました。「お天道さまの匂いがするわ。何をしてたんです?」

 次の瞬間、顔を上げた彼女は笑っていました。彼が戸惑うのはこの瞬間でした。恐いほどに透明な笑み。彼女の笑顔は一点の曇りもなく、太陽のように朗らかでした。彼を疑い恐れる心は、欠片も無いというように。

(お天道さまだって?)

「風を見ていたのさ。」これは本当でした。「待っているものが、なかなか来ないんでね。風の流れを読んでいた。」

 待っているもの、とは、当然のことながら獲物のことでしたが、それは省きました。実際、彼は風に混ざる匂いから虫達の動きを読み取り、巣掛けの方向を定めたりすることがありました。稀にではありましたが。

「眠っている間に、少し思い出したことがありました。」

「ほう、どんな?」

 彼は、最近昼寝をせずに彼女との話に付き合うことが増えました。

「……幼虫(こども)の時のこと。」彼女は蒼い眼に遠い光を宿らせました。「私は風をひどく嫌っていました。兄弟たちのほとんどが大風に飛ばされてしまって、私は独りだったからです。

それで私、仇を討とうと思って。」

「仇を?」

 彼は、思わず吹き出しそうになるのを抑えました。彼は彼女の昔が醜い毛虫であることを知らなかったので、今よりもっと小さく頼りなげな蒼い蝶が、風に向かってばたばたと怒っているのを想像したからです。

「そう、それで私、一生懸命大きくなったんです。葉っぱを食べて。」

「葉っぱだって?」彼は思わず頓狂な声を上げました。「おまえ、葉っぱが食べられるのか?」

「ええ、昔は。でもそのうち大きくなって、いざ風に向かっていこうとしたら、いつのまにか風が嫌いじゃなくなっちゃってたんです。」

「へえ、それはまたどうしてだ?」

「解りません。でも、ちゃんと大きくなって、飛べるようになったら、風が好きなことに気付いたんです。風に吹かれていると、とても優しい気持ちになれたんです。ああ、風について往きたいって。」

 彼は、不思議な調子で紡がれる彼女の言葉を、歌のように聞いていました。

「で、ついて往ったのか?」

 こくっと、彼女は頷きました。

「確かにな、風は俺も好きだ。時折手のつけようがないほど吹き荒ぶが、それだけ風は気ままだ。何処でも、何時でもこだわらずに吹いてくる。それに風は懐かしい感じがする。何でか解らないがな。忘れてしまった、とても大切なことを思い出させてくれる気がする。

風は、二度と同じものが吹かないというのにな。」

 こう一気に喋ってしまって、彼ははっとしました。こんなことを、彼女に言って何になるというのか。だいいち、自分はなぜ餌にしようと思っている相手と、こうも親しげに語り合っているのか。しかし、この会話を止めたいという気持ちになれませんでした。

「貴方は、どうですか?」

「え?」

 彼女の瞳が問い掛けます。

「……ああ、幼生(ガキ)の時のことか。」彼は、その瞳から目を逸らしました。「あいにく、俺は昔のことを何にも覚えちゃいないんだ。ここにやってくる前のことは特にな。ただ――」

 彼は、例の夢のことを口走りそうになって止めました。あんなことまで喋る必要は、どこにも無いからです。それは無駄なことでした。

「……さて、長話は終わりだ。俺はちょっと眠るぞ。何かあったら声を掛けろ。」

 強引に話を切り上げると、彼は上の葉に登っていってしまいました。彼女はしばらく何か言いたげに上を見ていましたが、そのうち諦めたように眠ってしまいました。


 それから、彼はあまり彼女の方に降りていこうとはしませんでした。話すのを避けているかのように。時折、彼女は寂しげに上の葉に視線を泳がせましたが、彼は見て見ぬふりをしました。あれ以来巣に獲物が掛からず、空腹のため極力体力を使いたくないというのが彼なりの理由でしたが、どうやらそれだけではないように思えました。

 体力を使いたくない、といっても、彼は日に二度、万年青の露を彼女に与えるのを忘れはしませんでした。彼女はその時ばかりは、蒼い瞳に無防備な表情を浮かべ、ただ一心に露を飲んでいました。その脆い命を守るように。そしてその脆い命を、いつか摘み取るであろう自分を彼はその時想像していました。しかし、まだです。その時はまだ来ていません。彼が彼女を喰らうのは、彼の空腹が限界に達するときです。そうすれば一日でも命を長く延ばしていられる、と、彼自身はそう思っていました。数日前に食べた羽虫は腹もちが悪く、彼はいつもより空腹が速く全身を覆っていくのを自覚していましたが、まだ我慢できる程度だったのです。

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