第98話 帝都防衛
帝都の防衛は、勇者一人の戦いではなかった。
北門では帝国軍と王国騎士が盾を重ねる。
東門では市場の商人たちが荷車を回し、水と乾パンを運ぶ。
施療院ではイレーネとノエルが負傷者を受け入れる順番を決め、治癒師たちは祈りを一人へ集めず交代していた。
共同食堂では、ハンナが大鍋を任されている。
「汁を切らすな! 戻った兵から座らせろ!」
タクミは城壁内の炊事場で、兵の顔を見て椀を分けた。
「前線へ戻る人は濃い方。吐き気がある人はこっち。手が震えるなら、先に水を飲んでください」
大鍋を守ってきた厨房が。
命令を待たず、目の前の声を聞く人たちが。
一人へ集中させない形に組み直された治癒と祈りが。
それぞれの場所で動いている。
魔物の群れが北門へぶつかった。
エスペルは中央に立ち、三つの戦線を見渡す。
「俺が核へ行く。リディさんは北門を維持。王国騎士は東へ回ってください!」
「一人で行くな」
ダグラスが馬の上から肩を掴む。
「行きません」
エスペルが笑う。
「道を空けてもらいます」
帝国の槍が獣を押す。王国の盾が横から群れを分ける。シィルヴィアの氷が、作られた一本の道を崩れないよう支えた。
勇者の半分の力が、その道の先へ走る。
黒い核へ剣が届く直前、地面から新しい群れが湧いた。
「後退!」
ダグラスの声が響く。
だが、東門の隊が囲まれている。
先に退けば、二十人が残る。
以前のエスペルなら、一人で残っただろう。
今は剣を地面へ立て、全員の位置を見る。
「北門、三歩下がれ! 東の隊を中央へ通す!」
「中央が開くぞ!」
「俺が埋めるんじゃない。全員で閉じる!」
号令に合わせ、部隊が動く。
誰かの足りない場所へ、別の誰かが入る。
一人も置かない。
全員が帰れる道を作る。
その瞬間、エスペルの召喚紋が赤ではなく、淡い金に光った。
剣から細い線が伸び、兵たちの退路を結ぶ。
速くなったわけではない。
強くなったわけでもない。
誰がどこへ動けば帰れるのかを、全員が同じ一瞬に理解した。
囲まれていた東の隊が抜ける。
北門の盾列が閉じる。
シィルヴィアの氷が魔物の足だけを止めた。
「今だ!」
エスペルの剣が黒い核を貫く。
光が空へ弾け、魔物の群れが次々と形を失った。
帝都の三つの門から、勝ち鬨が上がる。
炊事場まで届くほど大きな声だった。
◇ ◇ ◇
前線から戻ったエスペルは、最初に人数を数えた。
「全員いる」
ダグラスが頷く。
「帰れる形で勝った」
イリスが持っていた鑑定板へ、遅れて文字が浮かぶ。
――職業《勇者》。変化。
古い文字がほどけ、新しい名へ組み替わった。
――固有職《帰路を拓く者》。
誰もすぐに意味を説明できなかった。
タクミには、理由だけが分かった。
料理が新しい力を与えたのではない。
仲間を見て、半分の力を受け入れ、全員で帰る道を選んだ。
エスペルが積み重ねてきたものが、ようやく一つにつながった。
「勇者じゃなくなったのか」
エスペルが板を見る。
「困る?」
タクミが聞く。
「少しだけ」
「じゃあ、今日は考えましょう」
「その前に、飯」
「はい」
タクミは濃い方のスープを渡した。
エスペルが飲み、今度は味を確かめてから笑う。
「うまい。塩が少し強いけど、今はこれがいい」
その背後で、動きを止めたはずの黒い核が脈打った。
細い光が前線の全員を通り越し、シィルヴィアだけへ伸びる。
空気が、一瞬で凍った。
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