第96話 勇者ではなくエスペル
城門の前で、赤い光はまだ消えていなかった。
剣を石畳へ刺したエスペルの腕を、命令の声が震わせている。
『立て』
『戦え』
『我らを見捨てるな』
「セレスティア」
オルガが呼ぶ。
祈りの鏡の中で、セレスティアは頷いた。
以前なら、一人で祈りを受け止めただろう。
今は白い塔の治癒師たちが、遠くから同じ術式を分けて支えている。
「あなたを思う願いまで、消しません」
祈りの光が、エスペルの胸元へ触れる。
「あなた一人へ集中した分だけ、元の場所へ戻します」
細い糸が召喚紋からほどけていく。
勝ってほしいと願った兵士へ。
生きてほしいと祈った子どもへ。
帰らないでほしいと縋った国へ。
それぞれの願いが、それぞれの場所へ戻る。
イリスが城門前へ駆け込み、赤い光の外側へ銀粉で新しい式を重ねた。
「召喚を維持したまま、戦闘命令だけを分けます」
「できるのか」
「成功させます、とは言いません」
銀粉のついた指が震えている。
「失敗した時も、本人を記録から消しません」
オルガが術式を支える。
シィルヴィアはエスペルの前へ立ち、青白い魔力を広げた。
暴れる赤い光が、その形のまま一瞬止まる。
「今」
タクミは残った炒め飯を、もう一口渡した。
熱は弱い。
それでも、焦げた匂いは残っている。
味に触れた瞬間、今度ははっきり見えた。
真ん中にいるのは、帰りたいと願う青年。
怖がる。笑う。仲間の名を覚える。甘さを自分で決める。
その周りに、召喚の印と、歴代の願いと、戦えという期待が重なっている。
混ざっている。
同じものではない。
タクミには何も消せない。
魂を直すことも、別の形へ作ることもできない。
けれど、誰がエスペルなのかは見失わない。
「エスペルさん」
名前を呼ぶ。
ノエルが続ける。
「エスペル。右手を離して」
「エスペル、呼吸しろ」
ダグラスが命じる。
「エスペル」
リディが呼ぶ。
最後に、シィルヴィアが短く言った。
「戻って」
勇者ではない名前が、重なった声より近くから届く。
エスペルは右手を柄から離した。
自分の足で、一歩後ろへ下がる。
イリスが術式の一角を切り替えた。
赤い光が弾ける。
召喚紋は消えない。
その内側に刻まれていた戦闘命令だけが、細い亀裂となって崩れた。
エスペルの膝が落ちる。
ノエルが支え、タクミは空になった皿を置いて肩を貸した。
「聞こえるものは?」
「みんなの声」
「どの声です」
「近くにいる方」
エスペルが息を吐く。
「俺の名前を呼んでる」
その直後、帝都の外でいくつもの鐘が鳴った。
離宮の方角から、地を伝う低い音が来る。
オルガが顔を上げた。
「離宮の封印は、召喚紋にも反応していた。命令術式を分けた反動で弱まったのかもしれない」
止まっていたものが、世界のどこかで動き始めた。
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