第94話 所有される勇者
連合の通達は、丁寧な言葉で書かれていた。
世界が不安定な時期に、勇者の帰還を試みることは許されない。
研究停止は本人を守るための一時的な措置である。
「一時的」
リディが紙を畳む。
「期限も、解除条件もない」
その日の会議には、アルディア王国のレオンも魔術通信で加わった。
彼は通達を読み終えると、いつものように手袋を整える。
「現行条約では、召喚された勇者を召喚国の戦力資産として扱います」
エスペルは俯いた。
初めて聞いた顔ではなかった。
「人を所有物にする条約は認めない」
シィルヴィアの声で、室内の温度が下がる。
「しかし皇帝陛下。勇者殿の働きで救われた国は多い」
「感謝と所有は違う」
「彼が帰れば、次の災害は」
「各国で守る」
「理想論です」
ダグラスが地図を開いた。
「前回、半分の勇者と帝国・王国の兵で勝った。補給と交代を整えれば、同じ形は増やせる」
「時間がかかる」
「だから今日から始める」
レオンが通信板の向こうで頷く。
「王国は帝国の提案を支持します。帰還研究の安全基準、本人の同意、代替防衛網の整備を条約条件へ加えるべきです」
「本人が帰還を望んでいる証拠は?」
使者の問いに、エスペルの肩が固くなる。
タクミは口を出さなかった。
代わりに、彼の前へ水を置く。
エスペルは器を両手で持ち、顔を上げた。
「俺が望んでいます」
公の場で、初めて言った。
「帰る方法を探したい。今いる人を見捨てたいわけじゃない。でも、帰りたい気持ちまで国のものにはできない」
使者たちの前に沈黙が落ちる。
シィルヴィアが文書へ署名した。
「帝国領内で帰還研究を継続する。異議は外交文書で受ける」
「陛下」
「人を資産と書いた条約の方を、先に直して」
会議は終わらなかった。
けれど、帝国は研究を止めないと決めた。
◇ ◇ ◇
夜、エスペルは客室でタクミと食事をした。
薄い卵と、焼いたパン。
「俺、ここにいていいのかな」
「エスペルさんが決めることです」
「またそれ」
「大事なので」
「今日、自分で言ったら、足が震えた」
「座ってたから分かりませんでした」
「そういう意味じゃない」
エスペルが笑った。
次の瞬間、胸元の召喚紋が赤く燃え上がる。
椅子が倒れた。
彼の身体が、扉の方へ引かれる。
『北部へ向かえ』
重なった声が部屋へ響く。
物音を聞きつけたノエルが駆け込み、腕を掴む。
それでも足は止まらない。
窓の外で、遠い警鐘が鳴り始めていた。
自分の望みを口にしたエスペルを、古い術式が動かそうとしていた。
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