第91話 二人の異世界人
離宮から戻った夜、エスペルは皇城厨房の隅にいた。
机の上には、封印庫の文字を写した紙がある。
戻す。
帰る。
世界。
読めるのは、ほんの数文字だけだった。
「俺の世界の字に似てる。でも、古いというか、形が少し違う」
「どうして読めるんでしょう」
「それを調べるのが怖い」
エスペルは紙から顔を上げた。
「帰る方法につながるかもしれない。でも、最初から俺を呼ぶために用意されてた気もする」
タクミは火をつける。
鍋へ油を落とし、残った雑穀と刻んだ野菜、干し肉を入れた。
紙を見ても平気なわけではない。
分からない記憶へ名前をつけるのが、ずっと怖かった。
「僕も、たぶん」
包丁を置く。
「エスペルさんと同じように、別の世界の記憶があります」
エスペルは驚いても、大声を出さなかった。
「召喚されたのか?」
「分かりません。覚えていることが少ないので」
「どんな世界?」
「白いご飯があって、卵を焼いて。料理を運ぶ仕事をしていた気がします」
「しょうゆは?」
知らないはずの音が、ひどく懐かしかった。
「たぶん、知ってます」
「電車」
「知ってます」
「試験前の徹夜」
「それは、あまり」
「そこは覚えてなくていい」
二人の間に、小さな笑いが落ちた。
完全に同じ場所から来たとは限らない。それでも、説明しなくても分かる言葉がある。
鍋の中で卵を崩し、強い火で手早く混ぜる。
「火、強すぎないか」
「大丈夫です」
言った直後、焦げた匂いが立った。
「大丈夫じゃないな」
「そうかも」
エスペルが鍋の柄を支え、二人で火から外す。
できあがった炒め飯は、粒が揃っていない。卵も少し固い。
「失敗ですか」
「二人の責任にしよう」
「料理人としては困ります」
一口食べたエスペルが吹き出す。
「うまい」
タクミは眉を上げた。
「今日は、本当ですか」
「焦げてる。卵は固い。塩はちょうどいい」
「じゃあ、うまくはないです」
「でも、うまいんだよ」
言い直して、二人で笑った。
厨房の入口から、シィルヴィアが見ていた。
「楽しそう」
「少し失敗しました」
「私の時は、失敗しない」
「陛下の食事ですから」
「エスペルの時は?」
「一緒に作ったので」
シィルヴィアは少し考える。
「次は、私も一緒に作る」
リディが後ろから現れた。
「厨房の改修予算を先に組みます」
「どうしてですか」
「陛下が包丁を持つからだ」
エスペルが笑い、タクミもつられた。
シィルヴィアだけが真剣に、鍋の焦げを見ていた。
しばらくして、エスペルは匙を止める。
「召喚された時、声がした」
「どんな声ですか」
「命令だと思ってた。世界を救え、って」
焦げた匂いの向こうで、言葉を探す。
「でも、今思い出すと……助けて、って聞こえた気がする」
厨房の火が小さく揺れた。
命令だと思っていた声が、今は違って聞こえた。
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