第9話 賢者にも分からない料理
帝国最高賢者オルガの机には、三枚の報告書が並んでいた。
一枚目。
飢えて立てなかった少女が、スープを食べたあと歩けるようになった。
二枚目。
粗末な鍋で作ったオムレツは、焼き色が均一だった。
三枚目。
北門で雑炊を食べたシィルヴィアの手の冷えと疲労が、わずかに和らいだ。
「治癒反応は?」
「確認されておりません」
「強化は」
「魔力値に大きな変化はございません」
報告役の文官が答える。
オルガは紙面へ目を落とした。
(治癒ではない。強化でもない。では何だ)
指先で、三枚を揃える。
(料理が上手い? それだけで十年分の不調が一椀に負けるなら、私は賢者を辞めて鍋を学ぶべきでは?)
「賢者様?」
「興味深い」
表情は変わらなかった。
ただし、椅子から立つ動きだけは普段より速かった。
◇ ◇ ◇
タクミが小厨房で作っていたのは、固い肉と根菜の煮込みだった。
肉は筋が多く、そのまま焼けば噛み切れそうにない。
弱い火でゆっくり煮る。
根菜の甘い匂いが立ち始めた頃、入口から銀髪ではない人物が鍋を覗き込んだ。
「味見ですか?」
「観察だ」
「まず名乗ってください」
後ろから来たリディが言う。
「オルガ。賢者だ」
「では、味見を」
タクミが椀を差し出す。
「話を聞いていたか?」
「観察するなら、食べた方が分かるかと」
オルガは椀を見た。
結局、受け取った。
肉へ匙を入れる。
力を入れていないのに、繊維に沿ってほどけた。
根菜は形を保ちながら、芯がない。
オルガの手が止まる。
肉の断面を見る。
(待て。火を入れすぎれば崩れる。短ければ筋が残る。これはどちらでもない)
もう一度、匙を入れた。
(肉が自ら最適解へ歩いたのか? 肉に判断力が? いや、落ち着け。肉に負けるな)
「もう一切れ」
ミアがオルガを見上げた。
「おいしいなら、そう言えばいい」
「検証に必要だ」
「三切れ目ですが」
リディが言った。
「回数も検証条件だ」
オルガは目を逸らさなかった。
同じ部位。
同じ量。
同じ鍋。
同じ火。
ガレスの協力を得て、城の料理人とタクミが並んで調理することになった。
競争ではない。
オルガは砂時計を置き、鍋の温度と香りの変化を書き留めていく。
「火を少し弱めます」
タクミが言った。
根菜の甘い匂いが一段濃くなった。
オルガの鼻が、わずかに動く。
「時間は?」
リディが聞いた。
「……香りが変わった」
「時間を聞いています」
オルガは砂時計を見る。
砂は、とっくに落ち切っていた。
「測り直す」
「最高賢者が香りに負けましたね」
「観察対象が予想以上だっただけだ」
リディは何も言わず、新しい砂時計を置いた。
出来上がった二つの煮込みを、夜勤明けの兵士二人が食べた。
どちらも味はいい。
だが、タクミの椀を食べた兵士だけが、途中で肩の力を抜いた。
冷えていた指を、ゆっくり曲げる。
「どうした?」
「いえ」
兵士は自分の手を見る。
「少し、眠れそうです」
「それならよかった」
タクミは、それだけ言った。
オルガは魔力計を見る。
大きな変化はない。
治癒術の反応もない。
それでも、兵士の呼吸は食べる前より深くなっていた。
(料理技術だけでは説明できない)
(食材の状態だけではない)
オルガは紙へ書きかけ、筆を止める。
(食べた者まで、食事に適した状態へ近づいている?)
まだ言葉にするには早い。
線を引き、消した。
「何か分かりましたか?」
タクミが聞く。
「分からないことが増えた」
「悪くなりました?」
「研究者には良いことだ」
「次の検証は私が食べる」
シィルヴィアが厨房へ入ってきた。
「陛下は比較対象として条件が特殊すぎます」
オルガが即答する。
「健康だ」
「昨日まで食事を抜いておられました」
リディが言った。
「今日は食べた」
「そういう問題ではありません」
「食べたいだけ」
ミアが言う。
短い沈黙。
「検証も兼ねる」
シィルヴィアは言い直した。
タクミは普通に椀をよそう。
オルガはその椀と、シィルヴィアの表情を交互に見た。
これはこれで観察対象ではある。
ただし、何を測ればいいかは分からなかった。
シィルヴィアが食べ終える。
オルガは空になった椀、肉の断面、鍋を順に見た。
「これは、何をした?」
「煮ただけです」
長い沈黙が落ちた。
「そうか」
オルガは真剣に頷く。
「では、煮るという言葉から調べ直そう」
「賢者なのに?」
ミアが聞く。
「賢者だからだ」
そう答えながら、オルガは鍋の底を見た。
もう一杯、残っていない。
その夜。
オルガの机には、魔導書ではなく鍋、肉、根菜、砂時計が並んでいた。
(帝国最高賢者が、肉の煮え方で眠れない日が来るとは)
筆は止まらない。
困っているはずなのに、口元は少しだけ上がっていた。
翌朝、ガレスの机へ短い書状が届く。
『あの少年を、厨房から出すな』
その下には、小さく一行だけ付け足されていた。
『できれば、次の煮込みまで』
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