第89話 凍った離宮
離宮は、夏の終わりでも冷えていた。
門をくぐると、草の先に霜が残っている。石壁は白く曇り、窓は内側から凍りついていた。
シィルヴィアは馬車を降りてから、しばらく動かなかった。
リディも急かさない。
後ろの馬車から、オルガとイリス、エスペル、ダグラスが降りてきた。
「ここは、昔からこうでしたか」
タクミが聞く。
「私がいた頃から、冬だけは長かった」
「夏なのに?」
「私がいたから」
玄関の扉を開けると、冷たい空気が流れ出た。
侍従たちが火を起こそうとするが、湿った薪は煙ばかり吐く。
シィルヴィアの足が、敷居の手前で止まった。
「先に火をつけます」
タクミは厨房跡へ入った。
崩れた棚。煤けた鍋。割れた白い椀。
欠片を拾った時、胸の奥が鈍く痛む。
白い粥の湯気。
小さな手。
『……寒くなるから』
顔は見えない。
「タクミ?」
シィルヴィアの声で、記憶がほどけた。
「大丈夫です」
「今、何を見たの」
「分かりません」
嘘ではなかった。
タクミは壊れていない鍋を選び、汚れを落として洗った。
乾いた布と油で火を起こす。
火は小さい。だから薪を細く割り、空気の通り道を作った。
「もう少し離れていてください」
「なぜ」
「冷えるから」
「私が?」
「薪がです」
リディが肩を震わせた。
「何ですか」
「何でもない」
火が安定すると、根菜と干し肉を刻んだ。鍋底で肉を焼き、脂の香りが立ったところへ根菜と水を入れる。
煮える音が、空だった離宮へ戻ってくる。
シィルヴィアは火の近くまで来た。
「ここで料理をする人は、いなかった」
「食事は?」
「冷めてから運ばれた。近づくと凍るから」
タクミは火を少し強くした。
理由は分からない。
それでも、前にも同じことをした気がした。
煮込みを椀へ注ぐ。根菜は匙で崩せるほど柔らかく、干し肉の塩が汁へ溶けている。
シィルヴィアは椀を受け取っても、すぐには飲まなかった。
「ここで食べるのは嫌ですか」
「嫌ではない。ただ、何を食べたか覚えていない」
「覚えなくてもいいです」
タクミは火を見る。
「今、温かいなら」
シィルヴィアが一口飲む。
湯気の向こうで、固かった口元がほどけた。
「温かい」
「はい」
「もう少し、ここにいる」
タクミは薪を一本足した。
その時、床下から低い音がした。
オルガが壁際へ寄る。
「地下だ」
石床の継ぎ目に、古い封印文字が浮かび上がる。
中央には、シィルヴィアの氷とエスペルの召喚紋を重ねたような記号が刻まれていた。
割れた椀の欠片が、床の隅で小さく鳴った。
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