第86話 誰の決意か
翌朝、夜明け前。
エスペルの答えを聞くために、会議室は使わなかった。
客室の小さな食卓に、薄いスープの椀を人数分置く。
オルガの記録板。セレスティアの祈りをつなぐ小さな灯り。そしてエスペルの前には、何も書かれていない紙が一枚。
「戦う理由を、順番に書いてください」
ノエルが紙を押し出した。
「書けないなら言ってください。私が書きます」
「治癒師って、もっと優しいものじゃないのか」
「倒れるまで頑張らせるのを、優しさとは呼ばないと教わりました」
祈りの鏡の向こうで、セレスティアがわずかに笑う。
「教えた方を知っています」
「かなり容赦のない方です」
「イレーネですね」
エスペルも小さく笑い、筆を取った。
最初に書いたのは、守りたい人。
次に、帰りたい。
三つ目は、筆先が長く止まった。
「英雄でいたい、って書くのが怖い」
「どうしてですか」
タクミが聞く。
「それがなくなったら、俺には何もない気がする」
エスペルは、三つ目を書き足した。
セレスティアの指先で、灯りが揺れた。
「誰かが救われてほしいと願うことは、悪くありません」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「でも、あなたが休めないほど重なれば、その願いはあなたの声を聞かなくなる」
オルガが召喚紋の記録を開く。
「祈念の響きを弱める。君の力は半分ほどに落ちる」
「半分で、あの数を止められるか」
「一人なら無理だ」
ダグラスが答えた。
「だから編成を変えた」
帝国部隊と王国騎士が前衛を分担する。
エスペルは中央から全体を見る。
ノエルは出動中でも休止を命じられる。
撤退は勇者一人で決めず、各隊の損耗と補給で決める。
「勝てるかではない。帰れる形で勝てるかだ」
ダグラスは条件を書き足した。
エスペルは紙を見た。
誰かが決めた、勇者の戦い方ではない。
自分が生きて戻るための余白がある。
「……それなら行く」
「誰の決意ですか」
ノエルが聞く。
エスペルは、三つの言葉を順に指した。
「俺の」
セレスティアの灯りから、細い光が胸元へ伸びた。
赤い紋の周りで、重なった声が遠のく。
完全には消えない。
それでも、中心にある呼吸が聞こえた。
エスペルはスープを飲む。
「塩、昨日より薄い?」
「戦う前なので」
「帰ったら濃いのを頼む」
「その時の顔を見て決めます」
「厳しいな、料理人も」
タクミは空いた椀を受け取った。
出発は、間もなく迎える夜明け。
半分の力で、全員が帰るための最初の任務が始まる。
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