第85話 戦わせない選択
その日の会議室には、地図より多くの顔が集まっていた。
各国連合の使者。帝国軍の将官。勇者隊の術師と指揮官。
机の中央で、北部国境の赤い印が三つに増えている。
「魔物群は三日以内に砦へ到達します」
「勇者の状態が不安定でも、出動を止める余裕はありません」
連合の使者が続けた。
「これまで通り、強化祈念を重ねれば」
「これまで通りにして、本人の声が消えかけている」
シィルヴィアの声は静かだった。
怒鳴ってはいない。それでも、部屋の空気が一段冷えた。
「では、代替戦力と期限を示していただきたい」
ダグラスが地図へ手を置く。
「俺たちも、エスペルを消耗品だとは思っていない。ただ、勇者が間に合わず、砦が落ちた戦場を知っている」
右脚の古傷が、机の下でわずかに動いた。
「だから、また一人へ戻す?」
「他の形があるなら出してくれ」
シィルヴィアは即答しなかった。
必要な兵数、移動時間、補給路、撤退線を一つずつ聞く。
リディが書記へ指示を飛ばし、帝国軍の配置を組み替える。王国からは、レオンの名で騎士団の一部を回すとの伝書が届いた。
それでも、中央を押し返す力が足りない。
「三日で完全に戻すことはできない」
オルガが言った。
「だが、状態を見ずに出せば、国境より先に勇者が崩れる」
「料理人の見立ては?」
使者の一人が尋ねた。
「会議には呼んでいない」
シィルヴィアが答える。
「なぜです」
「誰を戦わせるか、料理人に決めさせるつもりはない」
◇ ◇ ◇
会議室の外で、タクミはその言葉を聞いていた。
自分に決められることではない。
だから小さな厨房へ戻り、鍋へ火をつける。
出汁を薄く伸ばし、塩をひとつまみ。エスペルが自分で選んだ温かさにする。
客室へ持っていくと、彼は窓辺で、遠くの北を見ていた。
「会議、長いな」
「たぶん、どうやって砦を守るか決めています」
「俺をどう使うか、だろ」
タクミは椀を置く。
「エスペルさんに聞く前に、決めるのは違うと思います」
「でも、聞かれたら戦うって答える」
「どうしてですか」
「俺が行かなかったら、人が死ぬ」
「はい」
タクミは否定しなかった。
「だから、戦う」
返事を待っている顔だった。
勇者らしい、と言えば楽になるのかもしれない。
タクミは椀の湯気を見る。
「それは、エスペルさんが決めたことですか」
指が椀の縁を押した。
「……分からない」
「じゃあ、食べながら考えましょう」
「三日しかないぞ」
「このスープは、熱いうちでいいです」
エスペルは呆れたあと、少し笑った。
一口飲む。塩を足さず、そのままもう一口。
「砦に、知ってる兵士がいる」
「はい」
「帰りたい。でも、あいつらを置いて帰りたいわけじゃない」
窓の外で旗が鳴る。
「俺は戦う」
さっきより遅い声だった。
「勇者だから、だけじゃなくて」
「もう少し考えますか」
「ああ。ちゃんと、自分の理由にしたい」
初めてエスペルが、正しい答えを急がなかった。
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