第84話 魂のずれ
地下の測定室に、食卓が一つ置かれた。
魔術具ばかりの部屋には似合わない、古い木の卓だった。
「食事の時に起きるなら、食事の時に見る」
オルガの指示で、エスペルの正面にタクミが座る。
隣にはノエル。少し離れた祈りの鏡には、白い塔のセレスティアが映っている。勇者召喚の主任術師イリスは、片眼鏡型の測定具を調整していた。
彼女の指先には、召喚陣を描いた銀粉が染みついている。
「昨夜の発声は、本人のものではありません」
イリスが言う。
「召喚契約に残る複数の祈念が、発声器官を使いました」
「悪霊か」
リディが聞く。
「いいえ。彼を戦わせ、守り、強くするために組み込まれた術式です」
「守るものが、本人の口を奪った?」
イリスは答える前に、エスペルを見た。
「結果としては」
セレスティアが両手を膝の上で重ねる。
「私が祈りに触れると、たくさんの声がします。勝ってほしい。帰らないでほしい。自分たちを守ってほしい」
「祈りが召喚紋へ積もっている」
オルガが記録へ書く。
「勇者補正、戦闘命令、歴代の祈念。肉体と魔力は耐えているが、魂だけが自分の声を出しにくくなっている可能性がある」
タクミは、白い粥を置いた。
香りを強くしない。誰かの故郷を真似る料理にもしていない。
「一口だけでいいです」
エスペルが頷き、匙を口へ運ぶ。
温度はちょうどいい。穀物の甘みも、塩も、身体には届いている。
それなのに、タクミの胸の奥で、味が二つに分かれた。
一つは、温かいものを飲んで安心した青年の反応。
もう一つは、その安堵を押しのけ、食べろ、立て、剣を取れと急かす硬いもの。
同じ身体の中にある。
けれど、混ざってはいない。
「……エスペルさん」
名前を呼ぶと、視線が来た。赤い紋は薄く光っている。
「今、何が食べたいですか」
オルガが顔を上げる。
「質問を変えたな」
「食べた時の感じと、紋が光った時の感じが違います」
「感じ、とは」
イリスが測定具を向ける。
「うまく言えません。でも、食べたいと思った方は、エスペルさんの近くにあります」
言葉にすると、指の隙間からこぼれそうだった。
「もっと食べろって急かす方は、外側です。たぶん」
周囲が黙る。
イリスは笑わなかった。すぐ測定紙を交換する。
「もう一口。今度は、本人が味を選んでください」
エスペルは粥を見た。
「……甘くない、温かいのがいい」
「これは?」
「少し塩が足りない」
タクミは塩を一粒ずつ足した。
「ここ」
エスペルが止める。
その匙を口へ運ぶと、赤い紋の光が弱くなった。
イリスの測定具から、二つの音が鳴る。
「本人の反応と術式の反応が、別々の波形で出ています」
オルガの筆が止まった。
「料理で魂を直したわけではない」
「はい」
「だが、本人が選んだ反応だけを見分けた」
タクミは、まだ半分残る椀を見た。
「見つけただけです」
セレスティアが胸元へ手を当てる。
「見つけなければ、祈りと本人を一緒に止めていました」
イリスは銀粉の残る指を握った。
扉の外から、軍靴の音が近づく。
「報告します」
入ってきたダグラスは、頭を下げたまま告げた。
「北部国境で魔物群の移動を確認。勇者の出動を前提に、防衛線が組まれています」
エスペルの前で、選んだばかりの一匙が止まった。
「勇者の力を止めるなら」
ダグラスが顔を上げる。
「今度は、国境が崩れます」
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