第83話 勇者失格
昼になる前、エスペルは自分の言葉を取り消そうとした。
「朝のは忘れて。寝不足で弱気になっただけだから」
窓の外では、勇者の到着を祝う旗が風に鳴っている。
タクミは小鍋へ牛乳を落とし、薄く切ったパンを浸していた。
「忘れません」
「え」
「聞かなかったことにはしません」
エスペルが困ったように笑う。
「勇者が帰りたいって言ったら、困る人がいるだろ」
「いると思います」
「なら」
「困る人がいても、エスペルさんが帰りたいと思ったことはなくなりません」
鍋の中で、パンがゆっくり膨らむ。
ノエルは入口の壁に寄りかかり、口を挟まなかった。
「タクミは、変だな」
「よく言われます」
「誰に?」
「リディさんに」
開いた扉の外から声がした。
「意味を変えるな」
リディが水差しを置く。その後ろにはシィルヴィアがいた。
「陛下まで?」
「視察」
「客室の?」
「料理人の」
エスペルがタクミとシィルヴィアを見比べた。
「なるほど」
「何ですか」
「いや。勇者でも聞かない方がいいことは分かる」
シィルヴィアはエスペルの前の器を見た。
「食べた?」
「一口だけ」
「十分」
それだけ告げると、タクミの小鍋へ視線を移す。
「残る?」
「残りません」
「そう」
声は同じなのに、室温が少し下がった。
リディが額を押さえる。
「陛下。視察は終わりです」
シィルヴィアが去ったあと、エスペルは声を立てずに笑った。
「帝国、ちょっと好きになった」
◇ ◇ ◇
夜。
眠れないと言ったエスペルのために、タクミは小鍋をもう一度火へかけた。
薄い乳粥と、焼いたパンの端。砂糖は控えめにした。
「歓迎宴より地味だな」
「夜食なので」
「勇者の夜食にしては」
「勇者じゃなくても食べられます」
エスペルは一口食べた。今度はすぐに感想を言わない。
「これ、甘くないな」
「砂糖を減らしました」
「昨日なら、うまいって言ってた」
「今日は?」
「もう少し甘くてもいい」
「分かりました」
タクミが砂糖壺を寄せると、エスペルは自分で一匙の半分を落とした。
小さく混ぜ、もう一度飲む。
「こっちがいい」
その選択を、ノエルが記録する。
しばらくして、エスペルが匙を止めた。
「俺、勇者失格かな」
タクミは答えを探した。
違うと言うのは簡単だった。けれど、それで彼が苦しい理由まで消すことはできない。
「そうか」
エスペルが顔を上げる。
「否定しないんだ」
「そう思うくらい、苦しいんですよね」
「……そっか」
笑った口元が、少しだけ崩れた。
次の瞬間、匙が落ちた。
金属音が床を跳ねる。
エスペルの背中が反り、胸元の服の下で赤い召喚紋が燃え上がった。
「エスペルさん」
ノエルが駆け寄る。
彼の唇が動いた。
出てきたのは、さっきまでの青年の声ではない。
低く、いくつもの息が重なっていた。
『勇者は、帰還を望まない』
乳粥の湯気が震える。
『我らの剣は、世界を守るためにある』
エスペルの手が、助けを求めるように卓の端を掴んだ。
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