第82話 帰れない青年
翌朝、タクミは大鍋を使わなかった。
白く炊いた雑穀を、掌で小さくまとめる。塩は指先に少しだけ。薄い汁には、干し茸と鶏の骨で取った出汁を落とした。
昨夜の検査で、毒も傷んだ食材も見つからなかった。
ノエルの記録では、宴の前から胃の動きが落ちていた。歓迎の席が続くたび、同じことが起きていたらしい。
「食べさせなければ吐きません」
客室の前で、ノエルが言った。
「それは、治ったことにはなりません」
「はい」
「今日は、一度に一口ずつです。本人が嫌なら、運んだだけで終わりです」
「分かりました」
扉を開けると、エスペルは窓辺の椅子に沈んでいた。
「昨日は悪かったな。せっかく作ってくれたのに」
「謝らなくていいです」
「でも、全部」
「食べたくて食べましたか」
エスペルの口が止まった。
タクミは盆を机へ置く。
「食べたくないなら、今日は片づけます」
「勇者が、飯を食えないのはまずいだろ」
「勇者じゃなくても、吐いた次の日は食べられないことがあります」
エスペルは器を見た。
「それ、何?」
「雑穀の握りです。僕のいた村でも、似たものを作りました」
「パンじゃないんだ」
「違います」
汁の湯気が、二人の間に上がった。
「同じものじゃありません。たぶん、エスペルさんの故郷の味とも違います」
「そう言い切るんだ」
「似せた料理を出して、懐かしいって言わせたくないので」
エスペルの笑顔が消えた。
怒ったわけではない。
笑わなくていい場所を、確かめているようだった。
彼は握りを半分に割り、ほんの一口だけかじった。炊いた粒がほろりと崩れ、塩が遅れて舌へ届く。
次に、汁を飲む。
「……似てる」
ノエルが記録板へ手を伸ばす。
「でも、違う」
その言い方は、昨日の「うまい」より柔らかかった。
「何が違いますか」
「向こうは、もっと白かった。握り方も固かった。中に何か入ってる時もあった」
「次は、少し固くしてみますか」
「作り直すのか?」
「近づけられるところだけ」
エスペルは、残った半分を急いで飲み込まなかった。
「召喚されてからさ。何度も故郷の料理を作ってもらったんだ」
親切だった、と先に言う。
珍しい食材を集めた者もいた。異世界料理の名前を記録した者もいた。出された料理の周りには、いつも期待する顔が並んだ。
「違うって言えなかった。うまいって言えば、みんな安心したから」
器の中で、汁の表面が揺れた。
「僕も、昔のことを全部は覚えてません」
タクミはそれだけを言った。
湯気。白い器。知らないはずなのに懐かしい料理。
誰と食べたかは、まだ霧の向こうにある。
「でも、違うものを違うって言うのは、悪くないと思います」
「帰りたいって言うのも?」
タクミは頷いた。
「帰れるかどうかとは、別です」
エスペルの指が、握りの欠片を押した。
「……帰りたい」
昨日の大きな声より、ずっと小さい。
「俺、帰りたい」
ノエルは慰めなかった。湯の椀を、手が届くところへ少しだけ近づける。
エスペルはもう一口、汁を飲んだ。
吐かなかった。
空ではない器を前に、初めて本当の言葉が残った。
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