第73話 木のスプーンの人
転属。
その二文字の後に、行き先はなかった。
「処分されたのですか」
セレスティアの声が低くなる。
「断定できません」
ユリウスが答えた。
「当時の懲戒記録が一部欠落しています。ただ、地下施設から子どもを外へ出そうとした者の記録があります」
日付が一致していた。
職位も一致する。
名前は黒く塗り潰されている。
「私には、何も」
セレスティアが紙へ手を伸ばす。
「知らせていません」
マルセルが言う。
「聖女様の負担を増やさないためでした」
「また、それですか」
セレスティアは怒鳴らなかった。
紙を持つ指だけが震える。
「私のために、私へ知らせない」
マルセルは返せなかった。
ミアが木のスプーンを机へ置いた。
「この人、優しかった?」
セレスティアは匙を見る。
「覚えています」
目を閉じる。
「食事を残すと、誰にも言わず小さいパンを持ってきてくれました」
「怒られなかった?」
「何度も」
「それでも?」
「何度も」
ミアは匙を手のひらへ戻した。
「じゃあ、たぶんその人」
証拠はまだ足りない。
けれど、施設の古い食材記録に、豆と根菜の使用量が不自然に多い日があった。
子どもの人数分だけ。
厨房の正式献立にはない。
「作ってみてもいい?」
タクミが聞く。
ミアが頷いた。
豆を柔らかく煮る。
香りの強い肉は使わない。
根菜を細かく切り、塩は最後に少しだけ。
特別な料理ではなかった。
大鍋の底に残った食材でも作れる、薄い豆スープ。
「違ったら?」
セレスティアが聞く。
「違ったって分かります」
「それでよいのですか」
「分かった方がいいです」
ミアが最初に食べた。
一匙。
目を閉じる。
長く止まった。
「ミア?」
「味は、分かんない」
「うん」
「でも」
匙をもう一度入れる。
「こういう匂い、知ってる」
豆の湯気へ顔を近づける。
「夜に、食べた気がする」
セレスティアも一匙取った。
「私も」
「聖女様も?」
「その方が、私にも作っていました」
同じ人が、塔の上と地下で、二人の少女へ同じような鍋を渡していた。
名前の残らない優しさだけが、木のスプーンと味に残っていた。
食後、ユリウスが一冊の帳簿を机へ置いた。
「これ以上、内部だけで伏せるべきではありません」
黒い表紙。
地下施設の予算、権限、死亡処理の承認記録。
「改革派として、公開と再編に協力します」
グレゴリウスへ背く宣言ではなかった。
教団を残すための宣言だった。
「壊すためではありません」
ユリウスは言った。
「明日の施療院を残すために、今日の間違いを隠さない」
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