第72話 ミアの名前
「あなたが誰だったのか、私は知っています」
封書は、ミアの前では開けなかった。
タクミが止めたからではない。
「見たくない」
ミア自身が言った。
マルセルの手が止まる。
「しかし、これはあなたの――」
「今は、見たくない」
今度は、はっきりしていた。
シィルヴィアが頷く。
「なら、開けない」
「陛下。出自の確認は施設再編にも必要です」
ユリウスが言う。
「必要な範囲は本人の同意を取って確認する」
「……承知しました」
マルセルは封書を机へ戻した。
そのまま話せる事実だけを分ける。
「母親は教団の研究に関わっていました。父親は、教団の影響下にあった小領の領主です」
ミアは黙って聞く。
「母親は器候補の扱いに反対し、資料を持ち出した。領地へ戻った後、反逆の嫌疑を受けています」
「それで?」
「領地は失われました」
木のスプーンが、ミアの膝の上で一度動いた。
「私、お姫様だった?」
「王族ではありません」
「よかった」
タクミが思わず見る。
「そこ、安心するところ?」
「王女様、大変そうだった」
「それはそうかも」
リディが額へ手を当てた。
「比較対象が特殊です」
ミアの口元が少し緩む。
それから封書へ目を戻した。
「そこに、昔の名前もある?」
「あります」
「言わなくていい」
「ですが――」
「ミアでいい」
静かな声だった。
逃げるようには聞こえない。
「昔のことを知らなくていいって意味じゃない」
木のスプーンを握り直す。
「でも、名前は今のでいい」
タクミは頷いた。
「うん」
「それだけ?」
「ほかに何かいる?」
ミアが少し笑った。
「いらない」
シィルヴィアがリディへ視線を向ける。
「記録を分ける」
「出自は保護情報。現名は?」
リディが筆を取る。
ミアは自分で言った。
「ミア」
新しい帳簿の一番上に、その二文字が書かれた。
番号より先に。
木のスプーンの記録は、別のところから見つかった。
古い備品台帳ではない。
人事記録だった。
「この刻み目」
マルセルが柄の裏を指す。
小さな三本線。
「子ども用の匙を私物から削っていた者がいました」
「誰です?」
タクミが聞く。
マルセルは一度、セレスティアを見る。
「以前、聖女様に仕えていた侍女です」
セレスティアの顔から、笑みが消えた。
「私の?」
「はい」
「その方は、今どこに」
マルセルは答える前に、古い記録を開いた。
そこには転属の二文字と、その後の空白だけが残っていた。
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