第64話 聖女ではない名前
「聖女セレスティア・ルーメンと申します」
名乗った本人へ、最初に返したのはリディだった。
「聖女様。こちらへ」
護衛神官も言う。
「聖女様、お足元を」
宿の主人は廊下の端で膝をついていた。
「聖女様」
同じ呼び方が重なる。
タクミは一度、机の上の書状を見た。
最後に署名がある。
セレスティア・ルーメン。
「セレスティアさん、座りますか」
返事がなかった。
「……駄目でした?」
薄紫の瞳が、ゆっくりタクミへ向く。
「いいえ」
一拍遅れて、椅子へ座った。
「そのように呼ばれたのが、久しぶりで」
護衛神官――ラウルがわずかに眉を動かした。
シィルヴィアは何も訂正しない。
自分も椅子へ座る。
「書状の話を」
「はい」
セレスティアの背筋が伸びた。
聖女の顔に戻る。
「アルディア王国で起きた干渉について、教団にも類似の記録があります。また、それは古く『器』の観測で生じた事例と一部が似ています」
「女神の器とは何だ」
オルガが聞く。
「今夜、すべてをお話しすることはできません」
「知らないのか」
「知っている範囲と、知らされていない範囲があります」
言葉は整っていた。
けれど、膝の上の手が震えている。
タクミはそこを見た。
長旅をした人の疲れ方ではない。
「夕食、食べました?」
ラウルがこちらを見た。
「今は器の話を」
「食べてないですよね」
セレスティアの視線が、一瞬だけ下がる。
「問題ありません」
「それ、よく聞く言葉です」
向かいでミアが小さく言った。
「だいたい問題ある時に言う」
リディが咳払いをした。
「誰から学んだのですか」
「みんな」
セレスティアの口元が、少しだけ緩んだ。
すぐに戻る。
タクミは宿の主人へ頼み、湯と少量のパンを借りた。
香りの強いものは避ける。
「食べられないなら、無理には出しません」
「……いえ」
「嫌いなものはあります?」
「好き嫌いは、ありません」
「じゃあ、今嫌なものは?」
また返事が遅れる。
「油の匂い」
「分かりました」
それなら薄いパン粥にできる。
鍋を火へかけると、セレスティアの肩がわずかに下がった。
ミアはずっと木のスプーンを握っている。
セレスティアは何度か、その匙へ視線を落としていた。
けれど、何も言わない。
出来上がった器を前へ置く。
湯気は弱い。
塩もまだ入れていない。
「まず一口だけでも」
セレスティアの手が匙へ伸びた。
触れる直前で止まる。
「どうしました?」
「食べると」
指先が震える。
「祈れなくなるから」
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