第6話 皇帝の隣室
北門を出た馬車は、夕暮れの帝都をゆっくり進んでいた。
ミアはタクミの隣で、袖を握ったまま目を閉じている。
眠っているようにも見えたが、馬車が石を踏むたび、指に力が入った。
向かいに座るシィルヴィアは、先ほどから一度も窓を見ていない。
「陛下」
リディが口を開いた。
「先ほどから、同じ場所をご覧ですが」
「体調確認」
「目視だけで分かりますか」
「分かる」
タクミはミアの額へ手を当てた。
「熱はないです」
シィルヴィアの目が、タクミの手へ移る。
「……そう」
馬車の中が静かになった。
リディだけが、何か言いたそうな顔をしていた。
◇ ◇ ◇
皇城の門をくぐると、並んでいた兵士たちが一斉に頭を下げた。
タクミは自分の靴を見た。
街道の泥が、乾いて白く残っている。
「このまま入って大丈夫なんでしょうか」
「何が?」
「床が汚れます」
シィルヴィアは磨かれた石床を見る。
「掃除すればいい」
「陛下が掃除なさるわけではありません」
リディが言うと、シィルヴィアは少し考えた。
「では、掃除する者へ手当を出す」
「そこまでの話ではありません」
ミアが立ち止まった。
高い天井。
見上げても、端が遠い。
廊下の両側には、知らない大人が並んでいた。
ミアの手が、タクミの服を強くつかむ。
タクミも止まった。
数歩先を歩いていたシィルヴィアが振り返る。
急かさず、その場で待った。
案内役の侍女が、一つの扉を開けた。
「こちらが、タクミ様のお部屋です」
広い部屋だった。
寝台だけで、村の家の食卓より大きい。
リディは、部屋の反対側にある重い扉へ目を向けた。
「陛下。念のため伺いますが、こちらを選ばれた理由は?」
「空いていた」
「皇帝陛下の私室の隣だけが、都合よく?」
タクミも、重い扉を見る。
「……陛下の部屋なんですか?」
「そう」
「他にも客室はございましたよね」
「ここが一番安全」
「近衛騎士団より、陛下のおそばのほうが?」
シィルヴィアは答えなかった。
侍女は反対側の扉を示す。
「ミア様のお部屋は、こちらの隣にご用意しております」
ミアは部屋を見なかった。
タクミの服から、手を離さない。
「一緒じゃないの?」
「同じ部屋にする」
シィルヴィアが即座に言った。
「陛下」
リディが静かに呼ぶ。
「着替えなどもございます。別室がよろしいかと」
「では、隣室」
「すでに隣室です」
「もっと近く」
「これ以上近くすると、同じ部屋へ戻ります」
短い沈黙が落ちた。
「……なら、それでいい」
リディが額へ手を当てる。
タクミはしゃがみ、ミアと目を合わせた。
「扉、開けておこうか」
「閉めない?」
「閉めないよ」
ミアは隣の部屋を見た。
それでも服はつかんだままだった。
湯と新しい服が用意された。
侍女が近づくと、ミアの肩が固くなる。
タクミは先に湯へ指を入れた。
「熱くないよ」
それから侍女へ振り返る。
「急がなくて大丈夫です」
「承知いたしました」
侍女は一歩下がった。
シィルヴィアは、タクミの袖口を見ていた。
何度も縫い直され、糸がほつれている。
「服を用意して」
「すでに礼服を三着ほど」
「十着」
「陛下」
リディの声が低くなる。
タクミは並べられた服を見た。
「これ、料理できますか?」
「式典用でございます」
「じゃあ、丈夫なものを一着だけで」
シィルヴィアは不満そうだった。
それでも、最後には白いシャツと動きやすい黒いズボンが残った。
夕食は、北門で作った雑炊の残りと、柔らかなパン、温かいスープになった。
豪華な皿は使わず、小さな卓を四人で囲む。
ミアはパンを一つ取り、膝の上の布へ包もうとした。
タクミは止めなかった。
侍女へ顔を向ける。
「明日の朝も、食事はありますか?」
「もちろんでございます」
「だって」
ミアの手が止まる。
シィルヴィアが言った。
「毎日ある」
ミアは包んだパンを見た。
少し迷い、半分だけ皿へ戻した。
残りは布の中にしまった。
誰も、それを取り上げなかった。
食後。
廊下でシィルヴィアと二人になった。
「どうして、俺たちにここまでしてくれるんですか」
「あなたを探していた」
「人違いでは?」
シィルヴィアの指が止まった。
「違わない」
それ以上は言わなかった。
銀色の髪。
蒼い瞳。
どこかで見たような気がする。
けれど、記憶はつながらない。
タクミが部屋へ戻ると、ミアは大きな寝台の横でしゃがんでいた。
「寝ないの?」
「ここで寝る」
「床で?」
ミアは頷いた。
タクミは靴を脱ぎ、寝台へ腰を下ろした。
それから椅子を引き寄せる。
「眠るまで、ここにいるよ」
ミアはしばらく寝台を見ていた。
やがて、端へ上がる。
柔らかな布へ身体を沈めても、タクミの袖は離さなかった。
「明日も、ここにいる?」
「いるよ」
「朝も?」
「朝も」
ミアの指から、少しずつ力が抜けていった。
部屋を出ると、廊下にシィルヴィアが立っていた。
「寝た?」
「はい」
「タクミも休んで」
「陛下も休んでください。北門でずっと待ってたんですよね」
「仕事がある」
「明日でもできませんか?」
シィルヴィアは黙った。
「……休む」
タクミが部屋へ入ったあと、柱の陰からリディが現れた。
「執務室へ戻られるのでは?」
「タクミが休めと言った」
「命令より効きますね」
シィルヴィアは否定しなかった。
静かに、自室へ歩いていく。
その夜。
皇城では珍しく、皇帝の執務室の灯りが早く消えた。
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