第58話 王女の厨房
「包丁は持たせません」
マティアスが最初に言った。
「今日は焼き菓子ですよね」
タクミが確認する。
「念のためです」
王都へ戻って四日。
エリアーヌの味覚は少しずつ戻っていた。
朝は薄い。
昼には蜂蜜の甘さが分かる日もある。
薬はドロテアと相談しながら減らしている。
柑橘は、まだ使わないことになった。
「香りはどうします?」
マティアスが王女へ尋ねる。
エリアーヌは材料台を見る。
蜂蜜。
乳。
炒った木の実。
香草。
「木の実を」
「承知しました」
薄い生地へ蜂蜜を少し。
砕いた木の実を散らす。
「殿下、混ぜ方は」
侍女が手を出しかける。
「自分で」
エリアーヌが木匙を握った。
生地が器の外へ飛んだ。
ミアが避ける。
「危なかった」
「すみません」
「もう少しゆっくり」
「はい」
二度目は飛ばなかった。
形を薄く整えるところで、また問題が起きた。
「丸くなりません」
エリアーヌの生地だけ、端がひどく歪んでいる。
マティアスの指が動く。
直したそうだった。
タクミは別の一枚を焼いていた。
「焼けない形ではないです」
「ですが、王宮で出す菓子としては」
「今日は誰に出します?」
マティアスが止まる。
エリアーヌが答えた。
「私です」
老人の肩から少し力が抜けた。
「では、そのままで」
焼き上がった菓子は、見事に歪んでいた。
一枚目は端が少し焦げている。
「失敗です」
エリアーヌが言う。
「食べます?」
タクミが聞く。
「失敗なのに?」
「嫌ならやめましょう」
王女は菓子を見た。
自分で割る。
ぱり、と音がした。
一口。
「甘い」
目が丸くなる。
「分かります?」
「はい」
もう一口。
今度は、エリアーヌが笑った。
声を押さえきれない、小さな笑いだった。
「形、ひどいですね」
「うん」
ミアも笑う。
「でも食べられる」
「はい」
入口で、シィルヴィアが立ち止まっていた。
「陛下」
タクミが呼ぶ。
「いつから?」
「今」
目は、タクミとエリアーヌの間にある皿を見ている。
エリアーヌが一枚取った。
「シィルヴィア陛下も、いかがですか」
シィルヴィアは少しだけ間を置いた。
「食べる」
同じ皿から取る。
一口。
「甘い」
「私も、今日は分かりました」
「よかった」
シィルヴィアはもう一口食べた。
タクミが笑う。
「陛下、それ殿下が作った方です」
手が止まる。
歪んだ形を確認する。
「……おいしい」
エリアーヌの頬が少し赤くなった。
「ありがとうございます」
マティアスは、そのやり取りを見たあと、自分の記録帳へ新しい欄を足した。
――本人の希望。
◇ ◇ ◇
夕方。
エリアーヌがタクミへ一通の封筒を差し出した。
「これは、公文書ではありません」
表には、王家の肩書きがなかった。
ただ一行。
――タクミへ。
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