第50話 身分の値段
その日の午後。
「お気持ちは理解します。ですが、善意は条約にはなりません」
セドリック・ヴァレンは静かな男だった。
灰色の外交服。
胸には婚姻候補国の銀章。
声を荒らげることも、エリアーヌの病状を笑うこともない。
「殿下のお身体を軽視する意図はありません」
長い会議卓の向こうで、書類を一枚置く。
「しかし、この婚姻は二人だけのものでもない」
国境地図が広げられた。
十数年前の衝突地点。
交易路。
共同監視所。
「婚姻条約が結ばれて以降、両国の大規模衝突は止まっています」
アルベルト三世が頷く。
「延期すれば、国内の強硬派が動く」
「我が国も同じです」
エリアーヌは黙って聞いている。
昨日までなら、そこで話が終わったのかもしれない。
「では」
彼女が口を開いた。
「婚姻以外に、国境を安定させる条件があれば?」
セドリックの目が初めて王女へ正面から向く。
「具体的に」
答えたのはシィルヴィアだった。
「共同食糧備蓄」
リディが地図の脇へ別の資料を置く。
「飢饉、戦時、街道封鎖時に双方が使える備蓄庫を国境二か所へ」
「帝国が保証するのですか」
「しない」
セドリックの眉が動く。
「アルディアと貴国が運用する。帝国は最初の監査方式と輸送記録を提供する」
「なぜ帝国が」
「食事改善の視察に来た」
シィルヴィアは淡々と言う。
「使えるなら使えばいい」
セドリックはすぐには答えない。
「交易路の保証は」
今度はエリアーヌが資料を取った。
「冬季の通行税を双方で固定し、備蓄用輸送は優先通行にします」
「誰が履行を監督します」
「わたくしが」
アルベルトが娘を見る。
エリアーヌは父を見返した。
「体調が戻ることを待ってからではなく、戻すための生活も含めて公務にしたいです」
会議はそこで終わらなかった。
予算。
倉庫。
通行権。
婚姻を一年遅らせることで生まれる政治的空白。
料理一皿で埋まるものではない。
タクミは途中から会議室の外へ出ていた。
自分に分かる話がほとんどなかったからだ。
廊下の長椅子では、若い書記が紙束を抱えたまま座っている。
腹が鳴った。
本人が気まずそうに咳をする。
「食べてません?」
「会議が終わるまで無理です」
「何時から?」
「朝から」
タクミは持っていた布包みを開いた。
薄いパンが二枚。
ガレスが持たせたものだ。
「一枚、どうぞ」
「いえ、私は」
「僕も食べるので」
一枚を自分でちぎる。
書記は会議室の扉を見た。
「食べているところを見られたら」
「半分なら早いです」
「そういう問題では」
腹がもう一度鳴った。
書記は諦めた。
「……いただきます」
二人で壁を見ながら食べる。
扉の向こうでは、国境の話が続いている。
「料理人殿は、会議へ入らなくてよいのですか」
「分からないことが多いので」
「帝国を変えた方だと聞きました」
「僕、厨房で料理してただけです」
書記が少し笑った。
その時、廊下の奥から兵士が走ってきた。
笑いが消える。
封じられた軍報が、会議室へ運び込まれた。
しばらくして扉が開く。
レオンが出てきた。
「国境で動きがありました」
手袋を直す指が、いつもより速い。
「婚姻候補国の部隊が、国境線へ向かっています」
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