第46話 王女の好きなもの
「好きなもの、ですか」
翌朝。
エリアーヌは、その言葉だけで困った顔をした。
昨日より部屋の窓は広く開いている。
花瓶も一つ減っていた。
食卓には料理を並べず、温い水だけが置かれている。
「嫌ではなかったものでもいいです」
タクミは椅子へ座った。
「昔、食べたことがあるとか」
「昔……」
エリアーヌが窓の外を見る。
王宮の向こうに、赤い屋根の市場が少し見えた。
その時だけ、視線が止まった。
「市場へ行ったことがありますか」
「幼い頃に、一度」
レオンが驚いて顔を上げる。
「殿下?」
「乳母が連れていってくれました。父には内緒で」
声が少しだけ軽くなる。
「薄い焼き菓子がありました」
「どんな?」
「丸くて……端がぱりぱりしていて」
指先が空中で円を描く。
「甘かった?」
「少し。蜂蜜だったと思います」
「他には」
エリアーヌは目を閉じた。
「黄色い果物の香り」
マティアスが小さく息を吐いた。
「柑橘の薄焼き菓子でしょう」
「知ってるんですか」
「王都では古い菓子です」
マティアスの声は固い。
「殿下が幼い頃、同じものを王宮で求められました」
「作らなかった?」
「王女殿下へ市場の菓子をそのまま出すことはできません」
責められたと思ったのか、白い髭の端が動く。
「代わりに上質な小麦と蜂蜜、香油を使った宮廷菓子を用意しました」
エリアーヌが微笑む。
「とても綺麗でした」
「好きでした?」
タクミが聞く。
笑みが少し止まった。
「……分かりません」
マティアスの手が、腰の銀鎖へ触れる。
タクミは立ち上がった。
「同じものは作らなくていいと思います」
「再現しないのですか」
「覚えてるのは、形じゃないので」
厨房で、三つだけ試した。
薄く伸ばした生地。
蜂蜜は刷毛でほんの少し。
香りは、柑橘の皮を削って生地の端へ混ぜる。
皮をもう一度削ろうとして、タクミの手が止まった。
嫌な匂いではない。
エリアーヌも、嫌だとは言っていない。
それなのに、少しだけ引っかかった。
「……柑橘、少なめにします」
「なぜです?」
マティアスが聞く。
「分かりません。今は、その方がいい気がして」
自分でも、理由は説明できなかった。
「宮廷菓子としては簡素すぎます」
マティアスが言う。
「はい」
「否定しないのですな」
「今は、綺麗にするところじゃないので」
焼き上がった一枚をマティアスへ渡した。
男は端を割る。
乾いた音がした。
少し食べ、眉を寄せる。
「蜂蜜が足りない」
「殿下、甘すぎると気持ち悪いって昨日言ってました」
「……言っていましたか」
「顔を背けてました」
マティアスは黙った。
ドロテアは材料と処方記録を照らした。
「小麦、蜂蜜、少量の柑橘。既知の禁忌には当たりません」
「一枚ですか」
「まず四分の一」
「分かりました」
王女の部屋へ戻る。
皿には、小さく割った菓子が一片だけ。
エリアーヌはすぐには手を伸ばさなかった。
「食べなくても大丈夫です」
タクミが言う。
「匂いだけでも」
エリアーヌは皿を近づけた。
柑橘の香りが上がる。
目が少し開いた。
「これ」
「似てます?」
「たぶん」
「たぶんで十分です」
指で端を持つ。
ぱり、と小さな音がした。
エリアーヌは一口だけかじった。
噛む。
もう一度、噛む。
「……好きだったと思います」
マティアスが顔を伏せた。
タクミは笑った。
「じゃあ、今日はそれで」
言い終える前だった。
エリアーヌの手から菓子が落ちた。
青緑の瞳が揺れる。
唇から、急に色が消えていく。
「殿下?」
次の瞬間、その唇が青くなった。
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