第40話 国境を越える噂
外国商人が置いていった金貨の袋は、翌朝も皇帝の机に残っていた。
その隣には、三冊の報告書が並んでいた。
軍務府。
夜食と休息の試験は継続。訓練離脱者と残食は減少。魔力量の増加なし。魔力循環の偏りが小さくなる例はあるが、条件は未確定。
帝都施療院。
料理で病気や傷は治らない。患者ごとの温度、濃さ、治療後の時間を記録することで、摂取再開の例が増えた。
帝都市民局。
共同食堂は五軒。規格外品の買い取りは商人組合が引き継ぎ、食券と通常料金を併用。補助なしで続けられるか、次月も確認する。
「タクミが作った料理の数は?」
シィルヴィアが尋ねる。
リディが頁をめくる。
「軍では最初の三日。施療院では試験食。共同食堂では初日の献立のみです」
「少ない」
「成果としては良いことです」
ガレスが言った。
「こいつがいないと止まるなら、改革じゃない」
タクミは三冊を見た。
自分の字より、知らない人の字の方が多い。
ベルンの太い文字。施療院料理係の細かな追記。市場商人の値段表。ミアとノアが書いた子どもの食数。
一人では、書けない報告書だった。
オルガは別の紙を机へ置く。
「調整作用の仕組みについては、仮説を一段進める」
「分かったんですか」
「分からないことが増えた」
魔力を与えているわけではない。増幅でもない。
確認できているのは、乱れた魔力循環が本人の平常時へ近づくことだけだ。
それが、食材を整える作用と同じ仕組みなのかは、まだ分からない。
「治してるわけじゃない」
「そうだ。戻るのは本人だ」
オルガは最後に一文を足した。
――作用の本質は未確定。
外国商人へ、記録そのものを売ることはしなかった。
代わりに、公開できる範囲を決めた。患者の名前、軍の配置、個人の魔力記録は伏せる。食堂の仕組みと、料理人が見るべき項目だけを渡す。
「国外へ広げる?」
シィルヴィアがタクミへ尋ねた。
「僕が行くんですか」
「行かせない」
即答だった。
リディが咳払いをする。
「陛下」
「今は」
一言だけ足された。
タクミは笑った。
「方法だけなら、先に渡せます」
「名前も?」
「料理の?」
「あなたの」
シィルヴィアは外国商人へ渡す文書の表紙を見ている。
そこには『皇城料理人タクミによる食事改善記録』と書かれていた。
「みんなの記録です」
タクミは題名を書き直した。
『ヴァルハイト帝国・食事改善共同記録』
その下に、軍、施療院、市民局、皇城厨房の名を並べる。
シィルヴィアはしばらく見てから、最後に小さく一行を足した。
――起点となった料理人、タクミ。
「消さない」
「はい」
◇ ◇ ◇
数日後、写しを持った外国商人の馬車が帝都を出た。
国境を越えた先で、最初に広まったのは魔力の噂でも、皇帝の名前でもなかった。
同じ鍋でも、食べる人を見れば変えられる。
その言葉だった。
◇ ◇ ◇
隣国の王都で、一人の少女がその記録の表紙を開いた。
少女の前には、手をつけられていない夕食が並んでいた。
銀の蓋を外して香りが立っても、顔を上げない。
侍女が共同記録の一節を読み上げる。
「同じ鍋でも、食べる人を見れば変えられる」
少女の指が、頁の端で止まった。
「この料理人は、病気を治すの?」
「記録には、治せないとあります」
「では、何をしたの」
「食べられる形を探した、と」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、冷めた皿ではなく、記録の表紙を見る。
起点となった料理人、タクミ。
「この人を呼んで」
侍女が息を呑む。
「ヴァルハイト帝国の皇城料理人です」
「だから?」
少女は初めて夕食の匙を取った。
けれど、口へは運ばない。
手の中で、重さだけを確かめる。
「来ないなら、私が行く」
帝国から渡った共同記録は、次の国の食卓を動かし始めた。
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