第39話 名前の噂
翌朝、厨房へ入った瞬間、全員がタクミを見た。
「おはようございます」
返事が遅れる。
ルッツだけが豆を洗いながら言った。
「有名人」
「昨日の食堂のこと?」
「そっちじゃない」
ガレスが包丁の背で作業台を叩いた。
「手を動かせ」
厨房が一斉に動き出す。
けれど、視線だけは時々タクミへ戻った。
侍女は配膳口で妙に丁寧に頭を下げる。文官は廊下ですれ違うたび、口元を隠す。近衛兵はリディを見てから、何も聞かずに姿勢を正した。
「失礼でしたよね」
タクミが言うと、リディは歩みを止めない。
「陛下に直接聞いてください」
「怒ってます?」
「私は疲れています」
「どうして」
「朝から同じ質問を十五回受けたからです」
執務室で、シィルヴィアは書類を読んでいた。
「昨日のことなんですけど」
「許可した」
「でも、人前で」
「許可した」
「皇帝を名前で呼ぶのは」
シィルヴィアが顔を上げる。
「私が許可した」
机の端には、二枚の予定表が重ねて置かれていた。
以前は隣だった。今は、一枚の留め具でまとめられている。
「仕事を減らす?」
「え?」
「名前で呼ばれるのが嫌なら、人のいる場所へ行かせない」
「それは困ります」
「私も困る」
シィルヴィアは視線を戻した。
「だから、そのままでいい」
◇ ◇ ◇
午後。
軍、施療院、市民局から届いた紙を、タクミは机の上で重ねた。
タクミが書いたところより、知らない字の方が多かった。
「寂しい?」
ミアが尋ねる。
「どうして?」
「タクミがいなくてもできるから」
タクミは少し考えた。
「嬉しいよ」
「少しも?」
「少しは、見に行きたい」
ミアは頷く。
「それは分かる」
シィルヴィアは二人の会話を聞きながら、タクミの予定表へ勝手に『皇城で夕食』と書き込んだ。
「増えてます」
「戻る場所」
「仕事ですか」
「両方」
リディは訂正しなかった。
夕方、市民局に、国外の紋章をつけた商人が現れた。
「食堂の記録を見せてほしい」
「買いたい」
男は金貨の袋を卓へ置く。
「料理ではない。仕組みごとだ」
タクミは袋ではなく、男の袖に刺繍された隣国の紋章を見た。
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