第4話 待ち続けた皇帝
町の屋根が見え始めた頃、ミアが足を止めた。
「いる」
「何が?」
「昨日の人」
街道脇の木陰に、黒い外套の人物が立っていた。
こちらへ向かって歩いてくる。
外套の下から、赤い髪がのぞいた。
腰には剣。胸元には、見たことのない銀色の紋章が留められている。
ミアがタクミの服をつかんだ。
女性は二人の前で立ち止まる。
「タクミだな」
「はい」
「返事が早いな」
「違ってましたか?」
「合っている」
女性は小さく息を吐いた。
「私はリディ。帝都まで同行する」
「道案内ですか?」
「護衛だ」
タクミは周囲を見た。
街道には荷車が一台。遠くに農夫が二人いるだけだった。
「危ないんですか?」
「今のところは」
「じゃあ、よかった」
「よくないから私がいる」
「そうかも」
リディは何か言いかけ、口を閉じた。
ミアが外套の裾を見ている。
「昨日もいた」
「昨日?」
「木の向こう」
「人違いだ」
「赤かった」
リディの赤い髪が、風で揺れた。
ミアは黙って見上げている。
「……護衛任務は、昨日からだ」
「やっぱり」
ミアの手から、少し力が抜けた。
タクミは木々の方を振り返る。
「見ててくれたんですね」
「任務だ」
「ありがとう」
「礼を言われることではない」
リディは先に歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「来ないのか」
「行きます」
タクミはミアの歩幅に合わせ、その後を追った。
◇ ◇ ◇
帝都ヴァルハイト。
銀髪の女性は、執務机の上に置かれた報告書を見ていた。
紙の端には、タクミの現在地と到着予定が記されている。
「明日の昼頃、北門へ到着する見込みです」
報告を終えた文官が、深く頭を下げる。
銀髪の女性の指が、到着予定の文字の上で止まった。
「予定を変更する」
「どちらの予定でしょうか」
「今日の予定を」
文官は手元の書類を開いた。
「本日の謁見が三件ございます」
「延期する」
「午後には軍議が」
「短縮する」
「夕刻には各国使節との会食がございます」
「延期する」
文官の指が、書類の上で止まった。
「どちらへ向かわれるのでしょうか」
「北門へ」
「北門へ、何の御用でしょうか」
「視察」
「何の視察でしょうか」
部屋が静かになった。
銀髪の女性は報告書を閉じる。
「……安全の」
文官は一度だけ瞬きをした。
「到着は、明日の予定ですが」
「分かっている」
「本日は来られません」
「道に迷っているかもしれない」
「リディ団長が同行しております」
銀髪の女性は立ち上がった。
「なら、問題ない」
「では、北門へ向かわれる必要は」
「視察」
同じ言葉だった。
文官は静かに書類を閉じた。
◇ ◇ ◇
町へ入る前に、三人は街道脇で休むことになった。
ミアの足を休ませるためだった。
タクミが荷物を下ろすと、リディは周囲を見渡した。
「火は使うな。煙が見える」
「じゃあ、冷たいままで」
布袋には、昨日の老女からもらった根菜が少し残っていた。
タクミは薄く切り、塩を振る。
固い黒パンを水で湿らせ、根菜と一緒に挟んだ。
「それは料理なのか」
「食べやすくしただけです」
「『調理』のスキルで?」
タクミの手が止まった。
「知ってるんですか」
「報告を受けている」
「誰から?」
「私の主からだ」
タクミは黒パンを持ったまま、リディを見た。
「俺を知ってるんですか?」
「それは本人に聞け」
「会えるんですか?」
「そのために迎えに来た」
リディはそれ以上答えず、街道へ目を向けた。
タクミはパンを三つに分ける。
一つをミアへ。
一つをリディへ差し出した。
「私はいらない」
「朝から何も食べてませんよね」
「なぜ分かる」
「さっきから、パンを見てるので」
リディの視線が、パンからタクミへ移った。
「周囲を警戒していた」
「パンを?」
「街道をだ」
ミアが自分の分を一口かじる。
「おいしい」
「根菜が甘いね」
タクミはもう一度、リディへ差し出した。
「冷めませんけど、乾きますよ」
「……少しだけだ」
リディは受け取り、端をかじった。
湿らせた黒パンはまだ固い。それでも、薄い塩味と根菜の水分が入り、噛むほど甘みが出る。
リディは無言でもう一口食べた。
ミアが見ている。
「どう?」
「普通だ」
「全部食べてる」
「食料を無駄にしないだけだ」
最後の一口もなくなった。
朝から歩き続けているはずなのに、肩の重さが少ない。
リディは一度だけ腕を回し、すぐに手を下ろした。
冷たい食事を取っただけだ。
そう片づけ、指先についたパン屑を払う。
「出発する」
「おいしくなかった?」
「普通だと言った」
「じゃあ、次は温かいのを作ります」
「なぜそうなる」
「冷たかったから普通なのかなって」
リディはしばらくタクミを見た。
「……好きにしろ」
ミアが小さく笑った。
◇ ◇ ◇
帝都北門。
突然現れた銀髪の女性に、門の兵士たちは朝から落ち着かなかった。
用意された待機室で、彼女は窓の外を見ている。
街道には、荷馬車が一台通っただけだった。
「到着予定は、明日の昼です」
北門を預かる老騎士が、少し離れた場所から声をかける。
「分かっている」
「本日は到着しません」
「道に迷っているかもしれない」
「リディ団長が同行しております」
「空腹かもしれない」
「団長には保存食を持たせております」
「保存食では足りない」
老騎士は口を閉じた。
窓の外を見ている横顔は、いつもと変わらない。
「何をご心配されているのでしょうか」
「護衛対象の健康」
「護衛対象は、リディ団長が守っております」
「健康は、剣では守れない」
老騎士は返す言葉を探した。
見つからなかった。
◇ ◇ ◇
町の門へ着くと、衛兵たちが一斉に姿勢を正した。
リディの胸元にある紋章を見ている。
「近衛騎士団長殿」
門番が深く頭を下げた。
タクミは隣を見る。
「団長なんですか?」
「そうだ」
「偉い人?」
「今は護衛だ」
ミアがタクミへ小声で言った。
「偉い人の言い方」
リディは聞こえなかったふりをした。
門の先には、一台の馬車が停まっている。
飾りの少ない黒い車体。
扉には、リディの胸元と同じ紋章が刻まれていた。
「これに乗る」
「帝都まで?」
「まず北門へ向かう」
「誰かいるんですか?」
「お前を待っている方がいる」
「どんな人ですか?」
「会えば分かる」
リディが馬車の扉へ手をかけた。
「予定を変えて来たんですか?」
「……勝手にな」
「勝手に?」
「今のは忘れろ」
ミアが馬車を見上げた。
「その人、暇なの?」
「違う」
リディの返事だけが、少し早かった。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めても、街道の先に馬車は見えなかった。
「まだ到着しません」
「分かっている」
「予定では明日です」
「分かっている」
「では、お戻りください」
銀髪の女性は窓辺から動かなかった。
「ここで待つ」
老騎士は、小さく息を吐いた。
彼女は返事をしない。
ただ、街道の先を見続けていた。
やがて、遠くで車輪の音がした。
窓枠に置かれていた指が、わずかに強くなる。
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