第32話 奇跡ではない料理
翌朝。
エレナは患者の記録を閉じた。
「傷は悪化していません。熱も昨夜よりわずかに下がっています。ただし、食べられなければ治療に耐えられません」
タクミは青年の枕元に、器を三つ並べた。
常温の補水液。冷ました鶏の汁。香りをほとんど消した麦湯。
「どれがいいですか」
青年の指が、中央の器へ動いた。
鶏の汁だった。
一匙。
昨日より薄い。量も半分。
青年は飲み込んだ。
すぐには次を出さない。
呼吸が落ち着くまで待つ。
「もう一口」
かすれた声だった。
父親が寝台へ近づこうとする。
エレナが手で止めた。
二匙目。
青年は目を閉じたまま飲んだ。
それ以上は求めなかった。
タクミも勧めなかった。
部屋を出ると、シィルヴィアが隣を歩く。
「辛い?」
「治せないって言うのが?」
「そう」
「少し」
タクミは空にならなかった器を見た。
「でも、治せるって言った方が怖いです」
シィルヴィアは足を止める。
「私なら、言わせない」
「何をですか」
「治せと」
「言いたくなると思います」
「それでも」
シィルヴィアの指が、タクミの袖をつまむ。
「できないことまで、あなたの役目にしない」
タクミは返事をせず、袖を見た。
その夜、青年は薬を飲めた。
熱はまだ高い。
傷も消えない。
けれど、治療を続けるための一口が戻った。
◇ ◇ ◇
翌朝、オルガは軍で取った記録と、青年の計測結果を同じ卓へ並べた。
「可能性ではない。作用は確認できた」
「ただし、仕組みはまだ仮説だ」
指先が、食後に揺れの小さくなった線をなぞる。
「魔力を増やしているわけではない。傷や病気を治してもいない。乱れていた魔力循環を、その者が本来戻れる状態へ近づけている」
「料理だけで?」
「違う」
オルガは補水液、薬、休息時間の記録を順に指した。
「食事、治療、休息。そのどれか一つでは足りない。この料理は、戻ろうとする身体を助けている」
記録帳の見出しが書き換えられた。
――魔力循環の調整作用。
タクミはその文字を何度か読んだ。
「僕が、魔力を動かしてるんですか」
「そうとは言っていない」
オルガは別の紙へ、食前、食後、休息後の三本の線を描く。
「料理だけで変化した例はない。水分を取らず、休まず、治療も受けなければ戻らない者もいる。お前の料理は、戻るための邪魔を一つ減らしている可能性が高い」
「邪魔?」
「偏り、詰まり、過剰な緊張。呼び方はまだ決めない」
シィルヴィアが記録を覗き込む。
「健康な者には?」
「ほとんど変化がない」
「乱れているほど、大きい?」
「傾向はある。ただし重症なら大きく効く、という意味ではない。本人が戻れない状態なら料理では戻せない」
タクミは青年の高熱を思い出した。
傷は消えない。病気も治らない。
それでも、薬を飲むための一口は戻った。
「名前が付くと、できることが増えたみたいですね」
「逆だ」
オルガは記録帳を閉じる。
「できることと、できないことを分けられるようになった」
扉の向こうで、青年が三匙目を求める声がした。
奇跡ではない。
だから、同じ条件を探し、次の人へ渡せる。
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