第31話 治せない料理
その日の夕方。
施療院の部屋には、薬草より先に熱の匂いが満ちていた。
寝台の青年は、唇を閉じたまま動かない。肩の傷には新しい包帯が巻かれ、額には冷えた布が置かれている。
「三日です」
主任治癒術師のエレナ・フォルクが言った。
「水は匙で数口。食事は戻しています。傷の処置は済んでいますが、高熱と魔力枯渇が続いています」
タクミは持ってきた鍋の蓋を開けた。
鶏と野菜を長く煮た澄んだ汁。香りは弱く、脂もほとんど浮いていない。
「これで治るのか」
患者の父親が尋ねた。
タクミは鍋ではなく、青年の喉を見る。
「治せません」
部屋が静かになった。
「では、なぜ来た」
「治療を受けられるように、少し飲めるか試します」
「奇跡の料理人だと聞いた」
父親の声が震える。
エレナが前へ出ようとしたが、シィルヴィアが視線で止めた。
タクミは浅い器へ汁を一匙だけ移した。冷ます。塩気を確かめ、さらに湯を足す。
「飲み込めなかったら止めます」
青年の瞼がわずかに動いた。
エレナが身体を支える。タクミは匙を唇へ触れさせる前に止めた。
「熱いですか」
返事はない。
「冷たい方がいいですか」
指先が、ほんの少し動く。
エレナが器を替えた。
一匙。
青年はすぐに咳き込んだ。
父親が息を呑む。
「止めます」
タクミは匙を下げた。
もう一度飲ませようとはしない。
しばらくして、青年の手が毛布の上を探った。
水差しへ向かう動きだった。
エレナが湿らせた布を唇へ当てる。
それだけで、青年の喉が小さく動いた。
「今日はここまで」
タクミが言うと、父親は鍋を見た。
「一匙すら、まともに飲めていない」
「はい」
「それで何ができる」
タクミは答えず、冷めた匙を布の横へ置いた。
その夜、青年は水を二匙飲んだ。
料理ではなく、エレナが用意した薄い補水液だった。
記録帳には、オルガの字で短く記された。
――治癒なし。摂取再開の兆候。魔力循環は食後にわずかに安定。
◇ ◇ ◇
翌朝、父親がタクミを廊下で待っていた。
「もう一度、作ってくれ」
その目には、昨日より強い期待があった。
「今度こそ、治してくれ」
タクミの指が、鍋の取っ手から離れた。
廊下の窓は閉まっているのに、手のひらだけが冷えた気がした。
「治せません」
「昨日、水を飲めた」
「エレナさんの補水液です」
「お前の汁を口へ入れたあとだ」
父親の声は責めるようで、縋るようでもあった。
タクミは否定する言葉を急がなかった。
自分でも、一匙のあとに何が起きたのか、全部は分からない。
だからこそ、分からないものを希望の形にして渡せなかった。
「もう一度、飲めるか試します」
「治すのではなく?」
「治療を続けるために」
父親は唇を噛んだ。
その横を、薬を載せた盆が通り過ぎる。
治癒術師。看護係。薬師。
タクミは盆が病室へ消えるまで見送った。
シィルヴィアは少し離れた場所に立っていた。
命令すれば、この会話を終わらせられる。
けれど、何も言わない。
タクミが自分の言葉で限界を伝えるのを待っている。
「できることだけ、します」
父親はすぐには頷かなかった。
それでも、二度目の器を拒まなかった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
今日の一皿はいかがでしたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。
また次の一皿で、お会いしましょう。




