第29話 食べる前の恐怖
夜の訓練場には、誰もいなかった。
タクミは端の長椅子へ、薄い肉汁と焼いたパンを置く。
「ここで食べます」
「食べたら訓練だろ」
「今日は終わりです」
エドガーは教官を見る。教官は頷いた。
「命令だ。今夜の訓練は終了」
それでも椀を取らない。
リディが反対側へ座り、自分のパンを肉汁へ浸した。
「冷えるぞ」
誰へ言ったのか分からない声だった。
「食べなくても、訓練は終わりです」
「そんなことあるか」
「今日はあります」
「明日は」
「明日のことは明日決めるそうです」
エドガーはようやく椀を持ったが、鼻へ近づけてすぐ戻した。
「匂い、強いですか」
「違う」
「脂?」
「違う」
やがて、小さく言う。
「腹が満ちると、走れと言われる」
食事の後、休む間もなく訓練へ戻される。吐いても弱いと言われる。次から量を減らし、やがて椀を見るだけで身体が固くなった。
タクミは肉汁の脂を匙で端へ寄せた。
「パンだけでもいいです」
「それで兵士が務まるか」
「今夜は、食べることしか頼まれてません」
エドガーの指が少し緩む。
パンを半分だけ浸し、一口。
リディも二口目を食べた。
「昔、訓練のあとに食べると、眠る前に胃が痛んだ」
「団長も?」
「団長になる前がある」
「どうしたんです」
「量を減らした」
「怒られなかった?」
「怒られた。別の教官が、怒った教官を黙らせた」
リディはそれ以上話さない。
エドガーは肉汁を一口飲んだ。額を押さえていた手が下りる。
「もう一口、いけそうですか」
「分からない」
「じゃあ、少し待ちます」
待つ間に松明が一つ消えた。
エドガーは椀の半分まで飲んだ。
返却札には『残食』ではなく、『夜食・半量摂取』と書かれた。
◇ ◇ ◇
翌朝、軍司令官ヴァルド・グラーフが厨房へ現れた。右頬に古い傷があり、食堂へ入るだけで兵士の背が伸びる。
「食事のために、兵を休ませたそうだな」
「一班だけです」
「料理で兵を甘やかすのか」
タクミは空にならなかった椀を見た。
「休ませたら弱くなるか、比べたいです」
ヴァルドの目が細くなる。
「弱くならなければ、続けるのか」
「僕が決めることではありません」
「では誰が決める」
タクミはベルンと教官を見た。
「毎日見ている人たちが、記録を見て」
ヴァルドはしばらく何も言わなかった。
軍司令官が沈黙すると、厨房の火の音まで大きく聞こえる。
やがて、彼は返却札を一枚取った。
『夜食・半量摂取』
その裏には、リディの字で『訓練復帰なし。宿舎で休息』と追記されている。
「一人のために、規則を変えるのか」
「一人で試して、皆に使えるかを見るんです」
「使えなければ」
「戻します」
「兵が倒れたら」
「料理だけでは止められません」
タクミは空にならなかった椀を片づけた。
「でも、倒れる前に食べられない人は見つけられるかもしれません」
ヴァルドの視線が、額に手を当てたまま宿舎へ戻るエドガーを追う。
「三日だ」
「一日ではなく?」
「お前が一日で決めるなと言った」
ルッツが横で小さく息を吐いた。
試験は、甘やかしではなく比較として始まった。
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