第25話 新しい居場所
百人分の料理を作った夜の震えは、もうない。
指先には、包丁でついた細かな傷が残っている。
必要だと言われたから残る。
それなら、村を出た時とあまり変わらない気がした。
ミアの木のスプーン。
ガレスが出した椅子。
厨房員たちの記録帳。
自分のいない朝に作られた、少し香りの強いスープ。
思い浮かんだのは、料理ではなく、それを囲んでいた人たちだった。
「料理を作りたいです」
シィルヴィアの瞳が動く。
「ここで、みんなと」
少しの沈黙のあと、彼女は言った。
「そう」
それだけだった。
けれど、目元が柔らかくなっていた。
「陛下のためにも作ります」
「毎日?」
「できる日は」
「毎日」
「休みの日もあるので」
「休みの日は、一緒に食べる」
タクミは少し考えた。
「それなら、いいかもしれません」
扉の外で、リディが額を押さえていた。
◇ ◇ ◇
翌日、タクミは正式に皇城厨房所属の料理人となった。
ガレスから渡されたのは、採用書と、使い込まれた厨房の鍵だった。
採用書には、夜勤向け献立の担当、廃棄候補食材の再判定、医務室との共同記録が記されている。
追放された『調理』が、皇城の正式な仕事になっていた。
採用書を前に、シィルヴィアが眉を寄せる。
「専属ではないの?」
「まずは厨房所属です」
リディが答える。
「タクミは私の料理を作る」
「陛下だけではありません」
「毎日は作る」
「食事予定は確保済みです」
シィルヴィアはしばらく書類を見ていた。
やがて署名する。
「夕食は空けて」
「公務のない日だけです」
「公務を減らす」
「減らしません」
リディの返事は早かった。
新しい調理着は、皆と同じ白だった。
袖を通すと、前より少しだけ身体に合っている。
「何か違います?」
「同じだ」
ガレスが答える。
リディは襟の内側へ目を向けた。
小さな銀糸の雪花が、一つだけ縫われている。
「見えないなら、作業の邪魔にはならない」
背後からシィルヴィアが言う。
「最初から、そのつもりでしたか」
「改良した」
ガレスは雪花を指で確かめる。
「引っかからない。今回は通す」
シィルヴィアは小さく頷いた。
厨房では、すでに竈へ火が入っていた。
入口近くの棚には、麦穂の家へ運ぶ蓋付きの器が、次の分まで重ねてある。
ガレスが肉を切り、ルッツが豆を洗っている。
ミアは野菜籠を抱え、少しふらつきながら運んでいた。
「半分持つよ」
「自分で持てる」
「じゃあ、少しだけ」
二人で籠を持つ。
ルッツが空いた作業台を顎で示した。
「遅い」
「まだ開始前だよ」
「俺はもう豆を洗った」
「ありがとう」
「礼を言うな。仕事だ」
言いながら、ルッツは少し笑っていた。
入口では、シィルヴィアが立ち止まっている。
リディが食堂へ戻そうとしていた。
「おはよう、タクミ」
「おはようございます、シィルヴィア陛下」
それでもシィルヴィアは、以前より少し柔らかく目を細めた。
タクミは皆のいる厨房で、包丁を取った。
「今日は何を作る」
ガレスが尋ねる。
「夜勤の人には豆のスープ。通常勤務の人には肉を少し増やします」
「理由は」
「昨日の記録で、夜勤明けの人が脂を残していたので」
「やれ」
包丁を入れる。
根菜の断面から、甘い匂いが立った。
作業台の端には、三通の封書が置かれている。
軍。
施療院。魔力枯渇で食事を受け付けない患者への試験提供。
帝都市民局。
どれも、皇城で始まった食事改善について尋ねるものだった。
タクミは封書を見たあと、目の前の鍋へ向き直った。
まずは、今日ここで食べる人のために。
白い調理着の袖をまくり、皆と同じ朝を始めた。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
今日の一皿はいかがでしたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。
また次の一皿で、お会いしましょう。




