第18話 百人が求めた味
「百人。二刻後」
ガレスが紙を作業台へ置いた。
「冷えと疲労。軽い脱水もあるそうだ」
タクミは食材庫を見る。
肉はある。だが、残っているのは筋の多い肩肉と、形のそろわない端肉だった。普段の兵士食でも残りやすく、急いで煮れば硬さと臭みが残る。
豆も根菜もある。だが、一つの鍋で百人分は作れない。
「肉と豆の煮込みなら」
「それでいく」
決定は早かった。
ガレスが厨房員を分ける。
「根菜。肉。豆。パン。配膳。五班だ。ルッツは豆。タクミは肉へ入れ」
「僕が全体を見なくていいんですか」
「誰が料理長だ」
「ガレスさんです」
「なら手を動かせ」
タクミは包丁を取り、肉の班へ入った。
厚い筋を外し、残る筋を断つ向きに包丁を入れる。脂の多い端は別の鍋で先に焼き、香りだけを煮汁へ移した。冷えた兵士が噛む力まで失っていても、口へ入れられるよう少し小さくする。
だが、隣の鍋から強い沸騰音がすると顔を上げた。
「あっちは火が強いかもしれません」
「担当が見ている」
「でも」
「自分の鍋だけ見ろ」
ガレスの声が低くなる。
「俺たちを信用しろ」
タクミは口を閉じた。
自分の鍋へ向き直る。
周りでは、別の者がパンを温め、別の者が器を並べている。ルッツは豆の鍋へ張りつき、沸きすぎる前に火を落とした。
誰もタクミの指示を待っていない。
鍋ごとに香りは少し違った。
それでも、時間までにすべてがそろった。
帰還した兵士たちは、指先を赤くし、肩を震わせていた。外套には雪が残り、靴から溶けた水が床へ落ちる。
「先に温かい汁を」
エレナが入口で状態を見ながら指示する。
「一気に食べさせないでください。手の震えが強い人は、器を支えて」
最初の一口では、誰も声を上げなかった。
ただ、匙を持つ手の震えが少しずつ止まる。
豆と肉の熱が喉を通り、白い息が温かな息へ変わっていく。隣同士で短い会話が始まった。
「塩、ちょうどいいな」
「そっちの鍋は少し濃い」
「交換するか?」
「もう半分食った」
百人の皿は、同じ味ではなかった。
それでも一人ずつ、空になっていく。
普段なら肉だけが皿の端へ残る。今日は、匙で押すだけでほどけた肉を、兵士たちがパンで最後の汁まで拭っていた。
「配る」
シィルヴィアが器へ手を伸ばす。
「陛下は席でお待ちください」
リディが止める。
「私も働ける」
「こぼす」
ミアが言った。
シィルヴィアは一度だけ黙った。
「こぼさない」
「前に水こぼした」
「一度だけ」
「一度で十分です」
リディが器を取り上げる。
「陛下は、食べ終えた兵へ声をかけてください。それも必要な仕事です」
シィルヴィアは納得していない顔で、兵士たちの方へ向かった。
タクミは思わず笑いそうになったが、次の鍋が届き、すぐ配膳へ戻る。
「肉班、あと十人分!」
ルッツの声が飛ぶ。
「こっちにあります」
誰かの鍋が足りなければ、別の鍋から補う。
一人の料理ではない。
百人目の器が空になる。
配膳係が大鍋を覗き込んだ。
「追加はないのか」
どの鍋も、底が見えていた。
食後、火のそばでしばらく休んだ兵士が、空の器を返した。
来た時には借りていた仲間の肩を、帰りには借りなかった。
エレナは記録板へ、治癒ではなく「自力歩行」と書いた。
外の風はさらに強くなっていた。
片付けが終わり、ガレスは空の鍋を順に見た。
「百人分で、足りないと言われたのは初めてだ」
厨房員たちが壁へ背を預ける。
「間に合った……」
ルッツが床へ座り込みそうになり、ガレスに睨まれて椅子へ移った。
タクミは作業台を拭き、残った食材を確認する。
「明日の朝の分は」
「もう数えた」
ルッツが答えた。
「鍋は」
「洗った」
「記録は」
「俺が書く」
ガレスがタクミの肩をつかむ。
「今日は終わりだ」
「でも、まだ」
「終わりだ」
タクミは頷いた。
誰も見ていない場所へ移り、手を握る。
指先が細かく震えている。
寒くはない。
止めようとしても、止まらなかった。
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