第16話 皇帝が待つ食事
執務室の前で、リディが扉を二度叩いた。
「陛下。タクミが戻りました」
紙をめくる音が止まる。
「……入って」
扉を開けると、シィルヴィアは執務机の向こうで報告書を開いていた。
机の上には、すでに終わった会議の資料が積まれている。その一番上の頁だけが、いつまでも開かれたままだった。
蒼い目が、入ってきたタクミへ向く。
リディが配膳車を押し入れた。銀の蓋の下で、夕食はすっかり冷めている。
「遅くなりました」
タクミは配膳車へ目を向けた。
「食べてないんですか?」
「食欲がなかった」
それだけ言う。
リディは何も言わず、タクミを見た。
タクミは冷めた料理へ手を伸ばさなかった。
「少し待ってください」
小厨房へ向かい、鍋に水を入れる。刻んだ根菜を煮て、米に似た穀物を加えた。火を弱めると、柔らかな湯気が上がる。
最後に卵を落とし、白身が広がりすぎないよう、匙でそっと寄せた。
シィルヴィアが小厨房の入口に立つ。
「孤児院はどうだった」
「運ぶだけでも難しいです。風で冷めるし、毎日行く人も必要になります」
「続けられない?」
「今のままでは」
シィルヴィアの指がわずかに動く。
「でも、向こうでも記録してくれることになりました。週に何回かなら、できるかもしれません」
「そう」
雑炊を前へ置く。
卵の黄色が、白い穀物の上でゆっくり崩れる。根菜の甘い香りが、冷えた部屋へ広がった。
シィルヴィアは匙を取った。
一口食べてから、ようやく肩の力が抜ける。
「すみません。毎日作るって言ったのに」
「料理のことではない」
タクミが顔を上げる。
シィルヴィアは匙を見たまま言った。
「あなたが帰ると思っていた」
短い言葉だった。
タクミは少し考える。
「帰りますよ」
シィルヴィアの目が上がる。
「遅くなっても、ここに戻ります」
「……そう」
「次からは、遅くなるなら伝えます」
「必ず」
「はい」
机の端に薄く浮いていた霜が、それ以上広がらなかった。
リディは冷えた銀蓋を重ねる手を止め、霜とシィルヴィアの指先を見比べた。
シィルヴィアはもう一口食べた。
タクミは、料理を待っていたのだと思った。
リディは、冷えたままの銀蓋を一つずつ重ねた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
皇帝の予定表へ、新しい項目が加えられた。
夕刻。
タクミとの食事。
リディは無言で筆を取り、「夕食」へ書き換えた。
次の日には、元へ戻っていた。
「陛下」
「効率的」
「何の効率でしょう」
シィルヴィアは答えず、予定表を閉じた。
その頃、厨房ではルッツが廃棄記録をめくっていた。
「料理長」
声が少し上ずる。
「この数字……間違ってませんか」
最初の週と比べ、廃棄量が半分近くまで減っていた。
ガレスは帳簿を見たあと、タクミが書き込んだ細かな文字へ目を移した。
誰が、何を、どれだけ残したか。
数字の横には、食べた時間と顔色まで書かれている。
「間違いかどうかは、明日も見れば分かる」
ページの端には、新しい空欄が残されていた。
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