第15話 可能性の一口
少年が怖がっているのは、料理ではなかった。
湯気が揺れるたび、目を閉じる。
「熱いのが嫌い?」
ミアが尋ねると、少年は答えなかった。
管理人のマルタが小声で言う。
「前に、こぼれたスープで口を火傷したんです。それから温かいものを見ると……」
「食べなさい」
別の職員が皿を近づけようとする。
タクミは、その皿を受け取った。
「今日は食べなくてもいいです」
「ですが、せっかく皇城から」
「怖いまま食べたら、次も食べられなくなるかもしれません」
職員の手が止まった。
タクミは脂の少ないところを選び、小皿へ一口分だけ取った。浅く広げて二度混ぜ、窓際へ置く。少年の席から湯気が見えない向きへ、皿を少しずらした。
その間に、自分の皿を少年から少し離れた席へ運んだ。
ミアも隣へ座る。
二人で黙って食べる。
豆は舌でつぶれるほど柔らかい。挽肉は小さく、冷め始めても脂が口へ残りにくい。パンを浸すと、外側だけが汁を吸い、中心には少し噛む感触が残った。
少年は椅子の下から片手だけ出した。
ミアが小皿を見た。
「なくならない」
少年の目が動く。
「ゆっくりでいい」
それ以上は言わなかった。
タクミも勧めない。
窓の隙間から入る風に、小皿の湯気が薄くなる。表面の汁が静かになり、少年の肩も少しずつ下がった。
「冷たい?」
小さな声がした。
「熱くはないよ」
タクミは自分の指先で皿の縁を触り、そのまま少年の近くへ置いた。
しばらくして、少年は匙を取った。
一口。
すぐに皿へ戻す。
誰も拍手をしなかった。
マルタは口元を押さえたが、声にはしない。
「どうだった?」
タクミが尋ねる。
「……熱くない」
「そっか」
「次も、冷ましたものを置いていい?」
少年は小さく頷いた。
それだけで、今日の皿は下げることにした。
ノアが空になっていない皿を見る。
「食べ残しになる」
「なるね」
「いいのか?」
「今日は、一口食べたから」
ノアは納得していない顔をした。
けれど、少年の代わりに皿を片付けようとはしなかった。
オルガは記録用紙へ目を落とした。
完食せず。
そこまで書いて、線を引く。
代わりに、短く書いた。
一口。
「記録としては曖昧では?」
同行したエレナが言う。
「食べた量だけなら、ほぼゼロだ」
「では、なぜ変えるのです」
「次も食べる可能性が生まれた」
オルガの声は短かった。
タクミは、その二文字を見た。
空にならなかった皿の前で、少年はまだ匙を手放していなかった。
帰り際、マルタが小さな蓋付きの器を持ってきた。
「次は、これを使えませんか。冷めるまで蓋を開けずに置けます」
「ありがとうございます」
「まだ、次があるとは言っていません」
「はい」
「ですが、こちらでも記録をつけます」
ノアが器を二つ抱えている。
「遅い。もう洗った」
「ありがとう」
「別に」
彼の布袋には、持ち帰り用のパンが一つだけ入っていた。
◇ ◇ ◇
皇城へ戻った頃には、外は暗くなっていた。
食堂の卓には、手をつけられていない夕食が並んでいた。肉のソースは表面が固まり、スープから湯気は消えている。
「陛下は?」
「まだ執務室です」
「夕食の時間、過ぎてますよね」
「ええ」
リディは冷えた皿へ銀の蓋を戻し、配膳車へ載せた。
「行きましょう」
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