第147話 食べたいもの
鶏の汁をすくった匙が、鍋の上で止まった。
タクミは味を確かめたはずなのに、もう一度、同じ量を口へ運ぼうとしていた。
「塩を足す気か」
ガレスの声に、タクミは顔を上げた。
「薄すぎないか、と思って」
「さっき確かめた。それ以上は、陛下に聞け」
タクミは匙を置いた。
ずっと、食べられる日を待っていた。いざ作れると、今度はこの味でよいのかと迷う。
好きな人へ初めて作るような、落ち着かなさがあった。
鍋の縁へ浮いた脂をすくい、蓋をする。ガレスが量を確かめるための小さな椀を、一つ添えてくれた。
「食べた分と、残した分を見てこい。次の味は、それからだ」
タクミは布で鍋の持ち手を包んだ。
「行ってきます」
ガレスは返事の代わりに、廊下へ道を空けた。
◇ ◇ ◇
「何が、食べたいですか」
タクミがそう聞けたのは、シィルヴィアが目を覚ました翌日の昼だった。
寝台の背を少しだけ起こし、エレナが姿勢を確かめる。水分を飲み込めることも、先に確認してあった。
シィルヴィアは、タクミが持ってきた小さな鍋を見た。
「雑炊」
迷わない返事だった。
タクミは頷いた。
聞くまでは、決めないでおこうと思っていた。それなのに、そう答えてほしいとも思っていたらしい。
蓋へ手をかけてから、少し笑ってしまう。
「まだ、米の入っていない汁です。今日はこれを少し。よければ、次に柔らかい米を」
「順番があるのだな」
「はい」
シィルヴィアの目が、エレナへ向く。
「決めるのは」
「お身体を診て、私たちから相談します」
「……分かった」
タクミは鍋を台へ置き、小さな椀へ汁をよそった。
鶏の澄んだ汁に、米を煮た湯を少し合わせている。脂は丁寧にすくい、香草も加えなかった。
椀から、かすかに鶏の香りがした。シィルヴィアが顔をこちらへ向けた。
匙を持とうとした指が、途中で止まる。
タクミはすぐに柄を握らせず、椀を置いた。
「僕が、持っていてもいいですか」
シィルヴィアは匙を見てから、頷いた。
「頼む」
タクミは寝台脇の椅子へ座った。椀を持ち直して温度を確かめ、匙の先へ少しだけすくう。
唇へ近づける。
彼女が自分で口を開くまで、待った。
一口が、ゆっくりと喉を通る。
タクミの手が止まった。エレナも呼吸と飲み込む様子を見ている。
むせなかった。
シィルヴィアが、一度、舌で唇を湿らせた。
「……温かい」
タクミは椀を持ったまま、頷いた。
食べてもらうと、『調理』を通して伝わってくるものがあった。
疲れた身体の中で、弱い流れが続いている。祭壇で感じた、外から押し込まれるものとは違った。
ただ、それだけで傷がどうなっているかまでは分からない。
タクミは感じたことを短くエレナへ伝え、次を待った。
「もう一口、いけますか」
エレナの問いに、シィルヴィアが頷く。
今度は、少しだけ早く唇が開いた。
タクミはその速さに合わせず、匙を持つ手を落ち着けた。焦れば、こぼしてしまう。
二口目を飲み込んだ後、シィルヴィアの視線がタクミの顔へ上がった。
「あなたも」
「僕も?」
「食べたのか」
タクミは一瞬、エレナを見た。
医官は、笑うのをこらえたように口元へ手を置いた。
「朝は、食べました。お昼は、この後です」
「なら、冷める」
「冷めたら、温めてもらいます」
ガレスたちが厨房にいる。そう言うと、シィルヴィアはようやく椀へ目を戻した。
その日の量を食べ終えても、椀の底には汁が残った。
シィルヴィアは、残った分を見つめていた。
タクミもそれを見た。
もう一口なら、と口を開きかける。エレナが先に椀へ手を伸ばした。
「今は、ここまでにしましょう。少し休んで、お腹や息の変化も確かめます」
シィルヴィアの指が布を押さえた。
「残してよいのか」
「はい」
答えたのは、タクミだった。
「次に食べる時の分は、また作れます」
彼女がこちらを見る。
「同じものを?」
「明日の身体に合わせて。食べたいものも、また聞きます」
シィルヴィアは、すぐには返事をしなかった。
やがて、布を押さえていた指が緩んだ。
「では、明日も聞いて」
「はい」
タクミはエレナから受け取った椀を台へ置き、鍋の蓋を閉めた。
食べ残しがあっても、今日は失敗したようには感じなかった。彼女が飲み込めた量を、エレナが記録している。
次に作るために、タクミも同じ量を紙へ書き留めた。
書き終えた時、シィルヴィアが小さく呼んだ。
「卵は、まだか」
筆を置こうとした手が止まる。
タクミは顔を上げた。
「覚えていたんですね」
「約束した」
彼女の視線が、片づけた鍋からタクミへ戻る。
「最初の二枚」
タクミは頷いた。返事をする前に、唇を一度、結ぶ必要があった。
「まだ、焼いていません」
「……そう」
シィルヴィアは少し笑った。
まだ残っている汁から目を離し、彼女はタクミだけを見ていた。
タクミは筆を置き、彼女の手のそばへ自分の手を置いた。
「一緒に、焼きましょう。食べられるようになったら」
シィルヴィアの指が、今度は自分から触れてきた。
「私が、割る」
タクミは笑った。
隣でエレナが、食事の記録へ新しい希望を書き足した。
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また次の一皿で、お会いしましょう。




