第146話 ただいま
「タクミ」
シィルヴィアが、もう一度呼んだ。
タクミは頷いた。返事をしたのに、まだ信じてもらえていない気がして、少しだけ椅子を近づける。
彼女の目が、顔から肩へ動いた。
地下で押し出された時、石床へぶつけた方だった。
「僕は、大丈夫です」
そう答えてから、タクミは唇を結んだ。
ずっと伝えたかった言葉が、まだ残っていた。
握られた指の下へ、自分の手を添える。冷たさの残る手が、そこに収まった。
「ただいま、シィルヴィア」
彼女の瞳が、少し大きくなった。
唇が動く。すぐには声にならず、一度、息だけが漏れた。
タクミは次の言葉を足さなかった。
シィルヴィアが目を閉じ、もう一度開く。
「……おかえり、タクミ」
言い終えた唇が、わずかに緩んだ。
タクミも笑おうとした。
息がうまく続かず、彼女の手を支えていた指が、わずかに浮いた。目元を拭いたかった。
けれど、手を離せなかった。顔を下へ向け、浮かせた指をそっと戻す。
「戻りました」
同じことしか言えなかった。
シィルヴィアの指が少し動いた。タクミの手の甲を、確かめるように撫でる。
地下で、頬へ伸びかけて止まった手だった。
タクミは彼女の手を引かず、指先が届くところで待った。
彼女の指が止まると、タクミはその手をそっと支え直した。
「……遅かった」
「はい」
「少し、痩せた」
「食べていました」
シィルヴィアの目が、ほんの少し細くなった。
扉のそばでリディが、声を出さずに息を吐いた。
「そこは、私が確認しています」
シィルヴィアはそちらへ目を動かした。頭を向けようとして、エレナに止められる。
「首は、そのままで。傷は閉じましたが、まだ動きに耐えられません」
シィルヴィアが瞬きをした。
目の端に、医官と治癒師たちがいる。オルガは寝台の足元で、測定器を見ていた。
「固定は」
「すべて解けています」
オルガが顔を上げた。
「外から魔力を受ける接続も、外したままだ。今の呼吸と脈は、ご自身のものです」
シィルヴィアはしばらく、動かなかった。
タクミは、握っている手に力が入るのを感じた。
「……そう」
返事は短かった。
その後、息を吐くまでに、長い時間がかかった。
「皆」
シィルヴィアは視線を動かした。顔を一つずつ見るには、まだ力が足りなかった。
「世話を、かけた」
セレスティアが一歩近づきかけ、寝台の脇を空けたまま止まる。
「食べられるところまで、もう少しです」
答えた声が揺れた。
シィルヴィアが、かすかに頷く。
食べられるところまで、お願いします。
一昨日の予行練習で頼んだ言葉を、セレスティアは覚えていてくれた。タクミは頭を下げた。
短い確認が終わると、エレナは面会を切り上げた。
唇を湿らせる処置を受けながら、シィルヴィアは目を閉じる。眠りへ落ちる直前、指がもう一度タクミを探した。
「ここにいます」
「……行くのか」
タクミの胸が詰まった。
今までなら、行かない、と答えたかもしれない。
エレナへ顔を向ける。医官は寝台の脇を見てから、椅子の位置を指した。
「静かに座っているだけなら、しばらく。ただし、次の交代で休んでください」
タクミは頷いた。
「次の交代までは、ここです。その後、隣の部屋へ戻ります」
シィルヴィアの指が、少し緩んだ。
「厨房へ行く時も、言います」
「分かった」
返事の後も、手は離れなかった。
タクミは動かずに座った。話したかったことが、いくつもある。
森の茸。橋で運んだ石。旅先の食卓。
その前に、十年前のことも聞きたかった。
けれど、彼女の瞼が落ち始めると、どれも口には出せなかった。眠る顔を見ていても、今度は怖さだけが残るわけではない。
布が静かに上下していた。
タクミはその動きから、少しずつ目を離せるようになった。
窓から朝日が差している。部屋の隅の水差しへ、細い光が届いていた。
交代の医官が来ると、タクミは彼女の手を布へ戻した。
「また、来ます」
眠るシィルヴィアへ、小さく言う。
部屋を出たところで、ガレスが待っていた。
運んできたのは、タクミの朝食だった。温め直した汁とパンが、盆の上にある。
「声は」
「聞けました」
ガレスの目が、一度だけ閉じた。
「そうか」
それだけ言って、盆を台へ置いた。
タクミは隣室へ入って座る。椀を持ち上げると、さっき彼女に触れていた指へ、温かさが伝わった。
ガレスが次の仕事へ戻りかけた時、タクミは顔を上げた。
「ガレスさん」
「何だ」
「ご飯を作れるところまで、帰ってこられました」
ガレスは少し黙り、まだ減っていない椀を見た。
「まず、お前が食え」
タクミは頷いた。
最初の一口は、少し塩が強く感じた。目元を袖で拭い、もう一口食べる。
今度は、根菜の甘さが分かった。
食べ終える頃、ミアがイレーネと来た。
走ってはいなかった。入口で立ち止まり、タクミと、空になった椀を順に見る。
「起きた?」
タクミは頷いた。
「名前を、呼んでくれました」
ミアの唇が開く。すぐには次の言葉が出ず、イレーネの手を握り直した。
「私のことも、分かる?」
「これから、聞いてもらいましょう。少し休んでもらってから」
イレーネがそばへ屈むと、ミアは小さく息を吐いた。
「じゃあ、あとで行く。籠も、持ってくる」
タクミが返事をすると、ミアは窓の方を見た。目を細め、空いている手で一度だけ頬を拭く。
そのまましばらく、三人で隣室にいた。
ミアとイレーネを見送った後、タクミは廊下へ出た。オルガが脇の台で短い報告を書いている。皇帝が意識を取り戻したことと、今は治療と休息を続けていること。
魔導国家へは、ヴェラを通してシラスにも伝える。森の分館、王国、召喚遺跡へ送る分もあった。
タクミは、シラスが最後に尋ねたことを思い出した。
その人は、何が好きなんだ。
「返事は、もう少し待ってもらってください」
タクミが言うと、オルガは筆を止めた。
「何の返事だ」
「彼女の、食べたいものです。本人に、聞いてから送ります」
オルガは宛先を確かめ、その紙へ一行を足した。
タクミはエレナに厨房へ行くと伝え、空いた椀を返しに向かった。戻ってくる時には、水差しも新しくするつもりだった。
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