第145話 動いた指
呼吸が戻ったと聞いても、タクミはすぐには立てなかった。
膝の上で、両手が動かなくなった。
「息を、しているんですか」
「ご自身の呼吸が確認できました。今夜も処置と観察を続けます」
知らせ役の言葉を、リディが隣で聞いていた。
彼女の手が、椅子の端から離れる。
「陛下は、まだ眠っておられるのだな」
「はい。今は、短い面会なら可能です。お一人ずつお願いします」
タクミは立った。
扉へ向かいかけて、リディを見る。
「先に、どうぞ」
「お前が行け」
リディの返事は短かった。
タクミが何か言う前に、その背へ手を添える。押しはしなかった。
「私は、次でいい」
タクミは頷いた。
洗い直した手を拭いてから、治療室へ入る。
シィルヴィアは、寝台に横たわっていた。
胸元は新しい布で覆われ、枕の位置も変わっている。顔のそばに残っていた霜も、薄くなっていた。
エレナが、寝台から少し離れた椅子を示した。
「触れるのは、右手だけにしてください。胸や肩は、まだ動かさないように」
タクミは座り、布の上へ置かれた手を見た。
地下で握り返しかけた、その形のままではなかった。指が少し開き、掌が自然に寝台へ向いている。
触れる前に、エレナを見る。
頷いてもらってから、指先へ手を添えた。
まだ冷たい。
けれど、同じ冷たさがずっと指に残り続けるわけではなかった。触れたところから、少しずつ温度が馴染んでいく。
「……戻ってきました」
声が小さくなった。
「今度は、隣の部屋からです」
返事はなかった。
タクミは指先を見たまま、寝台の布が動くのを待った。
ゆっくりと、胸が上がる。
下がる。
また、上がる。
気づくと、自分も同じ間隔で息をしていた。
「今日は、待てます」
言ってから、少し首を振った。
「早く、話したいです。でも」
そこから先は言えなかった。
指をそっと包んだまま、タクミは彼女の胸が上下するのを見た。
その動きを追っているうちに、目の前の布が滲んだ。
タクミは顔を伏せず、呼吸が続く胸元を見ていた。
◇ ◇ ◇
タクミと交代して部屋へ入ると、リディは寝台の脇の椅子へ座った。
シィルヴィアの右手は、布の上で少し開いていた。
リディは手袋を外した。傷へ響かせないよう、指の下へそっと自分の掌を差し入れる。冷たさの中に、かすかな温もりがあった。
「陛下」
いつもの呼びかけが、少しかすれた。
「ご命令通り、戻りました。料理人も、一緒です」
旅へ出る時、返事はもらえなかった。皇帝の護衛を近衛へ引き継ぎ、扉を閉めた。
あの時と同じ部屋なのに、今日は息の音がする。
リディはそれを聞いた。
「……お待たせしました」
その後に、報告が続かなかった。
エレナが離れた作業台で記録を取っている。リディはそこへ顔を向けず、しばらく寝台の脇にいた。
席を立つ前に、シィルヴィアの指を布の上へ戻す。
握った形へは直さなかった。力を抜いた手を、そのままにしておいた。
◇ ◇ ◇
夜のあいだ、治療室の灯りは消えなかった。
呼吸を確かめながら、残る固定も段階的に解かれた。胸の傷を診直し、手足の血の巡りを確かめる。そのたびに次へ進めるかを相談し、最後は顔に残った固定も外した。
それが終わっても、観察は続いた。
深夜にエレナが来て、本人を止めていた固定はもう残っていないと伝えてくれた。
「支える処置は、まだ必要です。ただ、固定を解いた状態で、呼吸と脈を保てています」
「それなら、目を覚ますのを待てるんですね」
「はい。今夜は、休みながら待ってください」
タクミは、寝椅子に置かれた毛布を見た。
横になるのが怖かった。目を離した間に何か起きるかもしれない。
けれど、眠っている間も、誰かが彼女を見ている。今日一日、扉を出入りした人たちの顔を思い浮かべた。
「変化があったら、呼んでください」
「必ず」
エレナが答えた。
タクミは靴を緩めて横になった。治療室の方へ身体を向け、椅子の端から落ちかけていた毛布を肩へ戻す。
隣の部屋には、シィルヴィアがいる。
寝台で見た、ゆっくりと上下する胸元を思い返して、タクミは目を閉じた。
眠りは浅かった。目を覚ますたび、記録係の足音や、水差しを置く音がした。
異変から十八日目の明け方、エレナが呼びに来た。
「呼びかけに、反応があります」
タクミは毛布を下ろした。足を床へつけ、すぐ立とうとして、寝椅子の肘へ手をつく。
「ゆっくりで大丈夫です」
その言葉に頷いてから、立った。
部屋に入ると、シィルヴィアの瞼がわずかに動いていた。
右の手が、布を探すように開く。
タクミは寝台のそばへ座り、手を差し出した。
「ここにいます」
指が触れる。
少し曲がり、また緩んだ。
エレナが彼女の名を呼び、短い言葉で確かめていく。目を開けられるか。声が聞こえるか。
シィルヴィアの眉が、ほんの少し寄った。
瞼がゆっくりと開き、何かを探すように瞳が動く。
「シィルヴィア」
タクミは、いつもよりゆっくり呼んだ。
「僕です」
蒼い目が、こちらで止まった。
視線が一度外れ、もう一度戻ってくる。
タクミは手を動かさなかった。彼女が見つけるまで、そこにいた。
薄く、唇が開いた。
「……タクミ」
小さな声だった。
十七日目の朝から、何度も、聞こえた気がして振り向いた。
今度は、目の前の唇が動いている。
「はい」
答えた声の方が、うまく出なかった。
タクミは息を吸い直し、もう一度頷いた。
「はい。ここにいます」
シィルヴィアの指が、差し出した手にかかった。
握るほどの力はなかった。
それでも今度は、途中で止まらなかった。
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