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氷血の皇帝は俺の料理を手放せない ~追放された料理人ですが、幼い日に救った少女が皇帝になっていて離してくれません~   作者: ジモンヌ
第9章 帰ってきた料理人と、約束の朝食

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第145話 動いた指

 呼吸が戻ったと聞いても、タクミはすぐには立てなかった。


 膝の上で、両手が動かなくなった。


「息を、しているんですか」


「ご自身の呼吸が確認できました。今夜も処置と観察を続けます」


 知らせ役の言葉を、リディが隣で聞いていた。


 彼女の手が、椅子の端から離れる。


「陛下は、まだ眠っておられるのだな」


「はい。今は、短い面会なら可能です。お一人ずつお願いします」


 タクミは立った。


 扉へ向かいかけて、リディを見る。


「先に、どうぞ」


「お前が行け」


 リディの返事は短かった。


 タクミが何か言う前に、その背へ手を添える。押しはしなかった。


「私は、次でいい」


 タクミは頷いた。


 洗い直した手を拭いてから、治療室へ入る。


 シィルヴィアは、寝台に横たわっていた。


 胸元は新しい布で覆われ、枕の位置も変わっている。顔のそばに残っていた霜も、薄くなっていた。


 エレナが、寝台から少し離れた椅子を示した。


「触れるのは、右手だけにしてください。胸や肩は、まだ動かさないように」


 タクミは座り、布の上へ置かれた手を見た。


 地下で握り返しかけた、その形のままではなかった。指が少し開き、掌が自然に寝台へ向いている。


 触れる前に、エレナを見る。


 頷いてもらってから、指先へ手を添えた。


 まだ冷たい。


 けれど、同じ冷たさがずっと指に残り続けるわけではなかった。触れたところから、少しずつ温度が馴染んでいく。


「……戻ってきました」


 声が小さくなった。


「今度は、隣の部屋からです」


 返事はなかった。


 タクミは指先を見たまま、寝台の布が動くのを待った。


 ゆっくりと、胸が上がる。


 下がる。


 また、上がる。


 気づくと、自分も同じ間隔で息をしていた。


「今日は、待てます」


 言ってから、少し首を振った。


「早く、話したいです。でも」


 そこから先は言えなかった。


 指をそっと包んだまま、タクミは彼女の胸が上下するのを見た。


 その動きを追っているうちに、目の前の布が滲んだ。


 タクミは顔を伏せず、呼吸が続く胸元を見ていた。



◇ ◇ ◇



 タクミと交代して部屋へ入ると、リディは寝台の脇の椅子へ座った。


 シィルヴィアの右手は、布の上で少し開いていた。


 リディは手袋を外した。傷へ響かせないよう、指の下へそっと自分の掌を差し入れる。冷たさの中に、かすかな温もりがあった。


「陛下」


 いつもの呼びかけが、少しかすれた。


「ご命令通り、戻りました。料理人も、一緒です」


 旅へ出る時、返事はもらえなかった。皇帝の護衛を近衛へ引き継ぎ、扉を閉めた。


 あの時と同じ部屋なのに、今日は息の音がする。


 リディはそれを聞いた。



「……お待たせしました」



 その後に、報告が続かなかった。


 エレナが離れた作業台で記録を取っている。リディはそこへ顔を向けず、しばらく寝台の脇にいた。


 席を立つ前に、シィルヴィアの指を布の上へ戻す。


 握った形へは直さなかった。力を抜いた手を、そのままにしておいた。



◇ ◇ ◇



 夜のあいだ、治療室の灯りは消えなかった。


 呼吸を確かめながら、残る固定も段階的に解かれた。胸の傷を診直し、手足の血の巡りを確かめる。そのたびに次へ進めるかを相談し、最後は顔に残った固定も外した。


 それが終わっても、観察は続いた。


 深夜にエレナが来て、本人を止めていた固定はもう残っていないと伝えてくれた。


「支える処置は、まだ必要です。ただ、固定を解いた状態で、呼吸と脈を保てています」


「それなら、目を覚ますのを待てるんですね」


「はい。今夜は、休みながら待ってください」


 タクミは、寝椅子に置かれた毛布を見た。


 横になるのが怖かった。目を離した間に何か起きるかもしれない。


 けれど、眠っている間も、誰かが彼女を見ている。今日一日、扉を出入りした人たちの顔を思い浮かべた。


「変化があったら、呼んでください」


「必ず」


 エレナが答えた。


 タクミは靴を緩めて横になった。治療室の方へ身体を向け、椅子の端から落ちかけていた毛布を肩へ戻す。


 隣の部屋には、シィルヴィアがいる。


 寝台で見た、ゆっくりと上下する胸元を思い返して、タクミは目を閉じた。


 眠りは浅かった。目を覚ますたび、記録係の足音や、水差しを置く音がした。


 異変から十八日目の明け方、エレナが呼びに来た。


「呼びかけに、反応があります」


 タクミは毛布を下ろした。足を床へつけ、すぐ立とうとして、寝椅子の肘へ手をつく。


「ゆっくりで大丈夫です」


 その言葉に頷いてから、立った。


 部屋に入ると、シィルヴィアの瞼がわずかに動いていた。


 右の手が、布を探すように開く。


 タクミは寝台のそばへ座り、手を差し出した。


「ここにいます」


 指が触れる。


 少し曲がり、また緩んだ。


 エレナが彼女の名を呼び、短い言葉で確かめていく。目を開けられるか。声が聞こえるか。


 シィルヴィアの眉が、ほんの少し寄った。


 瞼がゆっくりと開き、何かを探すように瞳が動く。


「シィルヴィア」


 タクミは、いつもよりゆっくり呼んだ。


「僕です」


 蒼い目が、こちらで止まった。


 視線が一度外れ、もう一度戻ってくる。


 タクミは手を動かさなかった。彼女が見つけるまで、そこにいた。


 薄く、唇が開いた。



「……タクミ」



 小さな声だった。


 十七日目の朝から、何度も、聞こえた気がして振り向いた。


 今度は、目の前の唇が動いている。


「はい」


 答えた声の方が、うまく出なかった。


 タクミは息を吸い直し、もう一度頷いた。


「はい。ここにいます」


 シィルヴィアの指が、差し出した手にかかった。


 握るほどの力はなかった。


 それでも今度は、途中で止まらなかった。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


今日の一皿はいかがでしたでしょうか。


少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。


また次の一皿で、お会いしましょう。

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