第144話 氷をほどく人たち
シィルヴィアの胸へ、治癒の光が触れた。
固定を解く前は、皮膚の上で止まっていた光だ。
エレナは傷の周りを見つめ、オルガの返事を待った。
「この範囲だけ、解く」
薄い霜が、傷の端からわずかに消えた。
白いままだった皮膚に色が戻る。その内側から、赤いものが滲み始めた。
出血が再開する。
分かっていた。模型でも、何度も確かめた。
それでもエレナは、添えていた布を一度、強く握った。
「解除は、そこで止めてください」
オルガの手が止まった。
セレスティアが光を重ねる。今度は、傷の浅い部分へ届いた。
エレナは布を替え、傷口の変化を記録係へ伝えた。布についた赤さばかり見ていると、治癒が進んだ場所を見落としそうになった。
目を戻す。
傷の端が、少しだけ寄っていた。
「届いています。ここは、処置を続けられます」
セレスティアが息を吐いた。光は強くせず、同じ場所に保った。
表面の出血が収まると、今度は身体の奥に残る傷へ進む。
胸を貫いた光の傷は、一度に治せない。オルガが固定の範囲を狭め、エレナたちが処置する。身体を支える術師は、その間も手を離さなかった。
シィルヴィアの顔には、変化がない。
頬は動かないまま、胸元には少しずつ血の色が戻っていた。
エレナはそれを見続けた。
自室へ移された日の夜、彼女の髪を整えた。返事のない相手へ、櫛が引っかかります、と声をかけた。
次は痛いと言ってくれてもよかった。
そのためにも、今は手元を間違えられない。
「次の範囲へ進めます」
エレナが告げると、オルガは同じ位置を指して確かめた。
それから、もう一度だけ霜がほどけた。
◇ ◇ ◇
隣室へ届いた最初の知らせは、傷の浅い部分へ治癒が入った、というものだった。
タクミは何度も聞き返さずに頷いた。知らせ役が戻った後で、自分の作業表を開く。
食事相談の欄は、まだ空いたままだった。
廊下では、交代の治癒師が手を洗っている。イレーネが、その人へ小さな杯を渡した。
半分ほど飲んだところで、治療室の中から椅子を引く音がした。
「次の解除を止めてください」
タクミは顔を上げた。
リディが扉の前へ移る。けれど、開けなかった。
部屋の中で、誰かが同じ言葉を繰り返した。続いて、処置を続ける声がする。
待っているうちに、タクミの手が冷えた。
廊下へ出たエレナは、先にリディと目を合わせ、それからタクミを見た。
「血の巡りを支える処置が、解除に追いついていません。今、解けたところを支えています」
「また、全部を止めるんですか」
「新しく解くのを止めています。治療した部分は、その状態を保っています」
全部を、元へ戻したわけではない。
タクミは聞いた言葉を、自分の中でもう一度確かめた。
「……彼女は、苦しくないんですか」
「痛みへの処置もしています。今の呼びかけには、まだ反応がありません」
エレナの額に汗があった。
タクミは、もっと詳しく聞きたかった。何が足りないのか。いつまで待てばいいのか。あと少しなら、進められないのか。
リディが、扉の前から離れない。
昨日、自分で頼んだ。危なければ止めてほしいと。
タクミは作業表を握り込む前に、脇の台へ置いた。
「分かりました。お願いします」
エレナが戻ると、交代を待っていた治癒師が入っていった。
イレーネも空の杯を受け取ってから、その後へ続いた。
タクミは、まだ半分残った水差しを見た。
今、自分にできることを探し、隣室の空の杯へ水を注いだ。
戻ってくる人が、すぐ手に取れる場所へ置く。
それを済ませても、時間は長かった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレナは一度、窓の外へ目を向けた。
光の色が変わっていた。昼から同じ場所へ立ち続けていた気がしたが、途中で二度、別の医官と交代している。
休んだ間の記録も、すべて手元へ戻ってきた。
出血は抑えられた。胸の深い傷にも、治癒が届いた。ただし、新しくつながった部分は弱く、身体を支える処置を外せる段階ではない。
セレスティアは休憩用の椅子から立とうとして、エレナに止められた。
「今の担当者で足りています」
「……はい」
セレスティアは座り直した。目だけは、寝台から離れなかった。
その視線の先で、シィルヴィアの胸元がかすかに上がった。
エレナは数値を見た。
支える術式の動きと、同じではない。
「オルガ様」
「見ている」
もう一度、胸が動いた。
エレナは息を止めかけ、静かに吐いた。自分の呼吸まで数えれば、混同してしまいそうだった。
記録係へ時刻を伝える。
「ご本人の呼吸が、出ています」
誰も声を上げなかった。
オルガは次の動きを待ち、セレスティアも椅子に座ったまま見守った。
胸が、またゆっくりと上がる。
エレナは濡れた布を替えた。さっきまでの赤い色が、少し薄くなっていた。
「ここからは、この呼吸を確かめながら進めます」
言い終えてから、知らせ役へ隣室の二人に伝えるよう頼んだ。
隣室で待つ二人にも、早く伝えたかった。
扉へ向かう知らせ役の足音が、早くなった。
エレナはその背へ、歩いて、と声をかけた。知らせ役は振り向き、呼吸を整えてから出ていく。
自分も、急に足の力が抜けそうになっていた。
寝台の端へつかまりかけ、手を作業台へ移す。
セレスティアがそれに気づいた。
「少し、替わります」
「ご自身の休憩は」
「終えました。次の解除までは、今の担当で支えられます」
エレナは記録係に確認し、空いた椅子へ座った。
胸が動くのを、今度は離れた位置から見る。手を動かしていないと、途端に怖さが戻ってきた。
もし、さっき止めるのが遅れていたら。
もし、次の解除で同じことが起きたら。
エレナは、その二つを口に出した。
オルガが顔を上げる。
「次へ進む前に、支える術式を見直す。今の呼吸を保てる条件も、もう一度測る」
返事を聞き、エレナは記録紙の空いている部分へ書き留めた。
セレスティアはシィルヴィアの顔を見ていた。
「陛下に、叱られるかもしれませんね」
「何をですか」
「怖かったと、話したら」
エレナもシィルヴィアの顔を見た。静かな眉と、閉じた瞼。明日には、この顔が不満そうに動くかもしれない。
「その時は、私も一緒に」
答えると、セレスティアが短く笑った。
呼吸を読む声に、二人ともすぐ顔を戻した。
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