第143話 扉の向こうの朝
朝の鐘が鳴る前に、タクミは目を覚ました。
寝台の脇に置いた調理着へ手を伸ばす。昨夜、直しておいた袖へ腕を通した。
今日は、彼女の固定を解き始める。
靴紐を結ぼうとして、指が滑った。もう一度結び、今度は両端を確かめてから立つ。
厨房では、ルッツが豆と穀物の焼き物を籠へ並べていた。タクミが昨夜、書き留めた紙も、同じ場所にある。
「少し大きくなりました」
ルッツが一枚を割る。中まで火が通り、縁を持っても崩れなかった。
「これなら食べやすそうです」
「そう思って」
二人で頷き合った。その間に、ガレスがタクミの前へ椀を置く。
「座れ。お前の分だ」
根菜の汁と、焼き物が一枚。
食べ始めると、豆の甘さが分かった。次の一口を飲み込んだところで、廊下の足音に顔を上げる。
通り過ぎたのは、洗い布を抱えた厨房員だった。
「呼びに来る奴には、ここにいると伝えてある」
ガレスは鍋の蓋を少しずらした。
「聞こえなかったら、俺が呼ぶ」
「……お願いします」
タクミは椀へ匙を入れた。汁の中で柔らかくなった根菜を、今度は噛んで食べた。
食後の皿を運ぼうとすると、ルッツが受け取った。
「あとは、こっちで」
タクミは空になった手を見て、頷いた。
厨房を出る前に、もう一度だけ振り返った。ルッツは配る先を確かめ、籠の脇へ行き先を書いた札を挟んでいた。
「治療室の分は、先にします」
「急がなくて大丈夫です。交代の時刻に間に合えば」
「……そっか」
ルッツは持ち上げかけた籠を置き、札を読み直した。
タクミも、すぐに歩き出せなかった。
ガレスが二人を見て、台の上の布を畳む。
「こっちは、いつもの時刻に出す。呼ばれたら、お前は向こうへ行け」
タクミは、ようやく扉へ手をかけた。
後ろで、ガレスがルッツを呼んだ。
「陛下の明日の分は、今は決めるな。今日の話を聞いてからだ」
明日、という言葉を聞いて、タクミは振り返らずに息を吐いた。
その先の食事を考えている人が、自分のほかにもいた。
◇ ◇ ◇
異変から十七日目の朝。シィルヴィアの部屋の前には、昨日までなかった作業台が置かれていた。
水差し、洗い布、記録紙。部屋から出てきた治癒師が、胸の前で一度、手を握って開く。
セレスティアだった。
タクミは、彼女へ声をかけた。
「朝食は、召し上がりましたか」
「はい。焼いたものも、半分」
答えた後で、彼女は自分の指先を見た。
「何度も確かめたのに、次に何をするのか、分からなくなりそうで」
タクミも懐の作業表へ触れた。待つ場所は、何度読み直しても同じだった。
「僕も、見てしまいます」
セレスティアが小さく頷いた。そこへエレナが出てきて、治療班を呼ぶ。
名前を呼ばれた人から、部屋へ入っていく。
オルガが扉の前でタクミを見た。
「先に、外から来る道を分ける。まだ固定には触れない」
「はい」
「陛下への接続を外せた時点で、知らせる」
扉の向こうに、寝台の端だけが見えた。タクミはもう少し見ようとして、足を止めた。
運び込まれる器具へ道を空ける。
「お願いします」
オルガは短く頷き、部屋へ戻った。
タクミは隣室の椅子へ座る。リディは扉から少し離れた位置で、治療室と廊下の両方を見ていた。
椅子を寝台へ寄せることは、今日はできない。
膝の上へ手を置いた。すぐに指を組み直し、それにも気づいて、両手を離した。
壁の向こうで、数値を読む声がした。
「第一の受け石へ」
別の声が復唱する。
間が空いて、もう一度。
タクミには、その間がどれほど長いのか分からなかった。廊下の台車が通る音だけ、妙にはっきり聞こえた。
やがて、扉が開いた。
知らせに来た医務室の者は、タクミが立つより先に言った。
「陛下の固定に変化はありません。受け石の一つで、流れの偏りが出ました。次へ進まず、確認しています」
「彼女に、戻っているんですか」
「陛下へは戻していません。今は、ほかの受け石へ流しています」
タクミは椅子の背へ手を置いた。
止めれば、朝のうちに彼女の声を聞けないかもしれない。昨夜から、その声ばかり考えていた。
それでも、部屋の中を急かす言葉は出せなかった。
「……分かりました。ここにいます」
知らせ役が戻ると、リディが同じ椅子の方を向いた。
「座って待て」
「リディさんも」
リディは一度、治療室の扉を見た。廊下の衛兵へ目で合図をし、タクミの隣の椅子へ腰を下ろす。
膝の上で、手袋の縫い目を押していた。
「陛下は、待たされるのが嫌いなんだ」
「知っています」
「食事の時は、特に」
タクミは頷きかけ、止まった。
シィルヴィアは、食堂へ早く来る。けれど、自分が席に着くまでは、匙を取らなかった。
リディも続きを言わなかった。
しばらく二人で、扉の向こうの声を聞いた。
◇ ◇ ◇
昼前、オルガが隣室へ来た。
袖口が濡れていた。作業中に冷却用の水がかかったのだと、聞かれる前に答える。
「偏りのあった道は外した。残る受け石の余力を確かめ、切り分けを終えた」
タクミは椅子から立った。
「彼女には、もう」
「外からの流入は止まっている。時間を置き、もう一度測った。本人を保つ固定は、そのままだ」
受け入れる道だけを外す。
遺跡の石で確かめたことが、彼女につながる術式でもできた。
タクミは口を開きかけ、息を吐いた。何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなった。
オルガが手に持っていた記録紙を見せる。陛下への流入、という欄に、確認した二人の署名があった。
タクミは、その文字を一つずつ読んだ。
「ありがとうございます」
声にすると、ようやく肩が下がった。
「これから、治療班が傷の周囲を解く。呼ばれるまでは、ここで」
「はい」
オルガは立ち去ろうとして、タクミの椅子に置かれた小さな包みに目を留めた。厨房から届いた昼食だった。
「食べておけ」
「オルガさんは?」
少しだけ間があった。
タクミは包みを開き、二枚ある焼き物の一枚を差し出した。
オルガは断らずに受け取った。隣の椅子へ腰を下ろす。
タクミも座り、残った一枚を口へ運んだ。
飲み込むまで、誰も次の話をしなかった。
部屋へ戻る時、オルガは空いた包みを畳んで置いた。
「次は、陛下の身体に触れる」
ついていこうとした足を止め、タクミは椅子へ座り直した。
扉が閉まるまで見送った。
ただいま、と伝える時、彼女はどんな顔をするだろう。
タクミは閉じた扉を見つめ、膝の上で組んだ指を、ゆっくりほどいた。
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また次の一皿で、お会いしましょう。




